第1話 全ての始まり


 全ての始まりは、十三年前までさかのぼる。

 大陸中央の小国――ジェイド王国にて、その物語の幕は開いた。


「ハア…………ハア…………ハア…………」


 一人の女性が寝台に横になったまま、か細い息を吐いている。

 二十代前半ほどの若い女性は頬が痩せこけており、肌には玉のような汗が浮かんでいた。

 明らかに何らかの病に侵されている。それもかなり進行しており、女性の余命が幾ばくも無いことは誰の目にも明らかだった。


「サーシャ……」


 女が眠っているベッドの傍らで、一人の男が背中を丸めて俯いている。

 唇を噛み、表情を険しく歪めながら女性に呼びかけるも……反応はない。サーシャと呼ばれた女性の耳に男の声が入っているのかも怪しかった。


 二人は夫婦だった。それもただの夫婦ではない。

 彼らは二人ともが英雄であり、その国を巨大な厄災から救った救世主だった。


 一年前、この国――ジェイド王国に『毒の女王』と呼ばれる災厄が出現した。

『魔王級』に分類される強大な怪物によって王国北部は地獄絵図と化し、いくつもの村々が滅ぼされて数えきれない被害を出している。

 そんな災厄級の魔物を討伐したのがベッドに眠っている女性と、それを見守っている男の二人である。


 女性――サーシャ・ハルスベルクは『賢者』の名を冠する凄腕の魔法使い。男性――ケヴィン・ハルスベルクは『拳聖』と謳われる武術の達人。

 多くの犠牲を出しながら、夫婦を中心とした討伐隊によって『毒の女王』は打ち倒され、平和を取り戻している。


 しかし……平和と引き換えにサーシャは『毒の女王』から呪いを受けてしまった。

 女王にとどめを刺したサーシャは『女王』が最後に放った呪いを喰らってしまい、不治の病に侵されたのである。

 サーシャは現在進行形で死にかけている。救国の英雄の命を救うために多くの医師や薬師、神官や宮廷魔術師が集められたものの、彼女を救う手立ては見つかっていなかった。


「…………ハア…………ハア」


「サーシャ、どうしてこんなことに……どうして、お前がこんな目に遭わなくちゃいけないんだ……」


 苦しむ妻を見つめることしかできないケヴィンは、無力さに打ちひしがれて拳で膝を叩く。

 王国最強の武人。素手でドラゴンを殴り殺すことができる『拳聖』のケヴィンであったが、呪いの病に侵された愛しい女性を救うことすらできない。

 こんなことならば、『毒の女王』なんて放っておけばよかった。ジェイド王国が滅ぼされたとしても、関わることなく逃げ出してしまえばよかった――そんな英雄としてはあるまじき考えすら頭に浮かんできてしまう。


「サーシャ……お願いだ、どうか死なないでくれ。俺を置いていかないでくれ……」


「旦那様、失礼いたします」


 嘆き悲しむケヴィンの耳に、扉をノックする音が聞こえてくる。

 ケヴィンが応えることなくジッと黙り込んでいると、外からドアを開いて屋敷で働いている使用人の男性が入ってきた。

 年配の使用人は雇い主である夫妻を痛ましげな目で見やり、控えめな口調でケヴィンに声をかける。


「旦那様、表に医師を名乗る方が見られています。お通ししてもよろしいでしょうか?」


「…………」


 ケヴィンがギリッと音が鳴るほど奥歯を噛みしめる。

 これまでも何人の医師が妻の身体を診察しており、何もすることができずに匙を投げていた。どうせ今回も無理に決まっている。


「……いいだろう。通せ」


 とはいえ、サーシャのことを救いに来てくれた人間を無碍むげに追い返すわけにもいかない。

 ひょっとしたら、『毒の女王』討伐に感謝をした国王や王太子が送ってくれた医師かもしれないのだ。『魔王級』と称される怪物の討伐によって貴族に叙任される話も出ており、ありえないことではない。

 ケヴィンが許しを出すと、「畏まりました」と使用人の男が廊下に消えていき……やがて、一人の人物が寝室に入ってきた。


「やあ、ケヴィン。久しぶりだね。私のことを覚えているかな?」


「お前は……!?」


 気安い仕草で手を挙げて入室してきたのは、背の高い女性だった。

 外見の年齢は二十代前半ほど。男性用の黒いスーツを着て、その上に白衣をマントのように羽織っている。

 顔立ちは整っているがどこか得体のしれない雰囲気を醸し出しており、漆黒の長い髪を無造作にまとめている。


 彼女の正体をケヴィンは知っていた。

 一時は仲間と呼んだこともあり、現在は袂を分かっているはずの女性である。


「貴様……何故ここにいる!? ドクトル・ファウスト!」


「ハハッ!」


 噛みつくような口調で名前を呼ばれ、白衣の女性――ファウストは真っ赤な唇を三日月型に吊り上げた。


 ドクトル・ファウスト。

 彼女に対する評価は、人や国によって大きく分かれている。


 良い評価としては――治療不可能だった難病の特効薬を開発したこと。とある国を滅亡させかけていた悪魔を封印したこと。魔物の大量発生スタンピードをたった一人で喰い込めたこと。

 ファウストを高く評価している人間は、彼女のことを「まるで天使のように素晴らしい女性だ」と称賛する。


 悪い評価としては――薬の実験台にして数十人の人間を死に追いやったこと。魔術の生け贄として町一つの住民を消し去ったこと。亜人と呼ばれる者達の身体を改造して生物兵器を生み出したこと。

 ファウストに敵意を持つ人間は、彼女のことを「まるで悪魔のように恐るべき女だ」と侮蔑している。


 ケヴィンやサーシャはかつてファウストを仲間と呼んで行動を共にしていたことがあったが、彼女の異常な行動を許容することができず、すでに縁を切っている。

 それなのに……どうして、今さらになってファウストが夫婦の前に現れたのだろうか?


「『何故』か。随分と冷たいことを言うじゃないか。私は旧友の危機を見て見ぬふりをするほど薄情な性格ではないよ? サーシャが『毒の女王』の呪いを受けて苦しんでいると聞いて、わざわざ大陸の端から駆けつけたのさ」


「何をぬけぬけと……! 貴様が五年前、あの町の住人に何をしたのか忘れたのか!?」


「覚えているとも。忘れはしない。実験の犠牲になった人間を忘れないのは、研究者としての義務だからね……そんなことよりも、いつまで患者を放っておくんだい? そろそろ、奥方を診察させてもらえないかな?」


「貴様……!」


 ケヴィンは白衣の女を睨みつけながら……心の片隅で一握りの希望が芽吹くのを感じていた。

 目の前にいる医師は狂人。明らかに人の境界を踏み越えた先にいる怪物である。


(だが……間違いなく、この女は最高の医師にして魔術師。ファウストであれば、あるいはサーシャを救うことができるのかもしれない……)


 むしろ、ファウストに救うことができないのであれば、本当に妻を救う手立てはないのかもしれない。そんな考えがケヴィンの脳裏をよぎった。


「クッ……」


 ケヴィンは悔しそうに表情を歪めながらも、ベッドの前から退いて妻の身体を診察することを許可した。


「結構」


 ファウストは苦笑しながらケヴィンの肩を軽く叩き、ベッドに横になったサーシャを診察する。


「よっと……失礼するよ」


「うっ……」


 ファウストがサーシャの服を脱がすと、その全身に紫色のアザが刻まれている。心臓を中心にして広がったアザはまるでサーシャの身体を侵略するように広がっており、すでに顔の下まで覆われていた。


「ほうほう、なるほどね」


「…………」


 ファウストはサーシャの服を脱がして、あちこち身体をまさぐっていた。

 それが医療行為であることは理解していたが……妻の身体を好き勝手にいじられて、ケヴィンの額に青筋が浮かぶ。

 ファウストが女性であるからギリギリのところで堪えられたが、もしも男であったのであれば文字通りの『鉄拳』が飛んでいたことだろう。


「うん、概ね理解できたよ。『毒の女王』の呪い。これが感染の呪病か」


「…………」


「なかなかに厄介なものを押しつけられたようだが……治せるよ。辛うじてね」


「治せるのか!?」


 ケヴィンは思わず大声を出す。

 これまで、どんな高名な医師に診せても、どんな優れた魔法使いに診せても、サーシャの治療法はわからなかったのだ。

 それなのに……たった数分の診察だけで、ファウストはあっさりとサーシャを救う手段を発見してしまった。


 ファウストは詰め寄ってくるケヴィンを「まあまあ」と抑えながら、ゆっくりとした口調で言い含めるように言う。


「期待させてしまったようですまないが……『毒の女王』の呪病。時として国を滅ぼす力を持った『魔王級』の災害の力をノーリスクで無効化することはできない。この呪いを打ち破るとなれば、代わりの犠牲になる者が必要だ」


「代わりの犠牲って……」


「『換魂の術』と呼ばれるものを知っているかな? 誰かの命を犠牲にして死者を甦らせる魔術の秘奥なのだが……その応用で、サーシャにかけられた呪いを他者に移せば治療することができるはずだ」


「…………」


 ケヴィンは息を呑んだ。

 つまり、サーシャを助けるためには誰かに呪いを押しつけなくてはいけないということである。妻を救うために他人を犠牲にする……それはあまりにも身勝手で冒涜的なことだった。


「……わかった。俺が代わりになろう」


 沈黙の後、ケヴィンはそうつぶやいた。

 いくら妻のためとはいえ、無関係な他人を犠牲にできるほどケヴィンは情のない人間ではない。ならば、自らが進んで身を差し出すしかなかった。

 ケヴィンは自身が死ぬ覚悟を決めて切り出すが……ファウストは両手を広げて首を振った。


「残念だが……君は術の対象外だよ。『換魂の術』は近しい『魂』の情報を持った人間、即ち血縁者の間でしか使用することができないんだ。呪いを移すことができるのは親子、あるいは兄弟姉妹くらいかな?」


「それじゃあ……助けられねえじゃないか!」


 ファウストの説明を聞いて、ケヴィン拳で壁を殴りつけた。


「サーシャは天涯孤独の身の上だ! 親はすでに死んでいるし、兄弟も姉妹もいない! サーシャの呪いを移せる人間は誰もいない……!」


 希望が見えたと思ったら……それはすぐさま手から離れて届かない場所まで行ってしまった。理不尽に理不尽が積み重なったような状況に、ケヴィンは再び絶望の底に落とされてしまう。

 しかし……ファウストが苦笑しながら黒い髪をかき上げた。


「そんなことはないだろう? いるじゃないか、呪いを移せる人間が」


「何だと……?」


「言ったじゃないか、血のつながった近親者であれば呪いが移せると。その対象には……まだ生まれていない胎児も含まれている」


「なあっ!? ま、まさか……!?」


 ケヴィンはファウストの言わんとすることを悟り、思わずサーシャのほうに目を向ける。


「ハアッ……ハアッ……」


 診察のために服をはだけた妻……その身体の中に命が宿っているとでも言いたいのか。


「まさか……俺の子供が……?」


「父親が君であるとは限らないがね? いや、失敬。サーシャが妊娠しているのは間違いない。医師として保証するよ」


「…………!」


 ケヴィンは表情をこれでもかと歪めた。

 サーシャを救いたい。愛する妻の命を救うためならば、己の命や魂だって差し出しても構わない。

 だが……そのために我が子の命を犠牲にしなくてはならないとは、どれほど残酷な仕打ちなのだろう。


「何ということだ……この世に神はいないのか?」


「私はどちらでも構わない。君の決断を尊重しよう。このまま放っておけば母子もろともに死ぬことになる……とだけは念押ししておくがね?」


「クッ……」


 ケヴィンは両目を閉じて、拳を握りしめ……やがて非情な決断を下す。


「……妻を助けてくれ。子供に呪いを移してくれ」


「ああ、構わないよ。了承し……」


「まち、なさいっ……!」


「サーシャ!?」


 決断を下したケヴィンであったが、それを止めたのはベッドで虫の息になっていたはずのサーシャ・ハルスベルクだった

 いつの間に目を覚ましていたのだろう。サーシャは大量の汗をかいて顔を蒼白にさせながら瞳を開けており、横目でケヴィンとファウストを睨みつける。


「馬鹿に、しないでよ……自分のこどもを、犠牲にして……生き残りたくなんてない……!」


「だけど……サーシャ! 他に方法がないんだ! 君が死んだら、お腹の中にいる子供だって死んでしまう。だったら、いっそ君だけでも……!」


「私の子供よ……! この子を、独りで死なせるくらいなら、私はこの子を抱いたまま、冥府の門をくぐることを選ぶわ……!」


 息も絶え絶えになりながら、サーシャの瞳には強い意思が宿っている。

 自分が命を落としそうになっているのにもかかわらず、サーシャは我が子を手放そうとはしなかった。

 それは母の強さである。我が子を守らんとする母の思いはあらゆる動物に共通するもの。決して揺らぐことのない鋼鉄の意思だった。


「ふむ……本当にそれでいいのかね?」


 しかし……決意を固めるサーシャにファウストが首を傾げて尋ねた。


「子供に呪いを移し替えることなく、このまま死を選ぶ……それが最終的な判断で本当に良いのかな?」


「当たり前、よ……親は子供を助けるもの。子供を身代わりにする親が、どこにいるのよ……!?」


「だが……そうなってしまうと、君も子供達も・・・・・・死んでしまうよ? たった一人を犠牲にすれば残りの全員が助かるのに、わざわざ全員で死ぬ必要があるとは思えないが」


「だから……!」


 苛立ち、呪いで弱った身体にムチを打って怒鳴りつけようとするサーシャであったが、ふとファウストの言葉に違和感を覚えた。


「待って。子供、たち……ですって?」


「ああ、『子供達』……だとも」


 ファウストは頷いて、サーシャの疑問に肯定を返す。


「君の子宮に宿っているのは双子だよ。胎児は二人いるんだ」


「ッ……!?」


「なっ!? 双子だって!?」


 ファウストの発言に夫婦はそろって愕然とする。

 子供が二人となれば、そもそもの前提が変わってしまうからだ。


「二人いる子供のうち、一人に呪いを移せば……母親ともう一人の子供は助かる。三人で仲良く死ぬか、あるいは一人を犠牲にして残る二人が助かるか……これはそういう二者択一なのだよ」


「そん、な……」


「さあ、どうするかね? 我が旧き友よ。私は君達夫婦の決断を尊重する。子供二人を道づれにするか、一人だけでも助けてあげるか……好きな方を選択したまえ」


「…………」


「どちらを選んでも間違った選択ではない。命の選択に正解などないのだからね」


 決断を迫るファウストの表情は穏やか。優しげともいえる慈悲深い顔をしている。

 だが……そんな穏やかな相貌が、ハルスベルク夫妻には人間に契約を迫る悪魔の顔に見えたのだった。


 その日、夫婦は一つの決断を下すことになる。

 苦悶の末に出した決断は十数年後、大勢の人間の運命を左右することになるのだが……そのことは夫婦も含めて誰も予想していないことだった。

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