キャラクターの先行構造
物語を書き進めるうちに、キャラクターが独り立ちし、当初のプロットから離反し始める。書き手なら、そのような話をよく耳にするよね。
果たしてこのとき、変容しているのはキャラクターなのだろうか、プロットなのだろうか。キツネの所感では、変容しているのは〈読者としての作者〉だ。つまり、当のキャラクターがそのような個性を有していたこと、プロットは本来そのような個性を受けとめる場であったということを、作者は書きながらにして読み、理解し始めたということに他ならない。
何故このようなことが起こるのかを、「存在とは何か」という根本的な問いに立ち戻って考えてみよう。
存在とは、木漏れ日であり、珈琲の香りであり、幼児の柔らかさであり、赤の他人への親切である。これらは存在そのものではないかもしれないが、少なくとも存在のひとつの形ではある。存在とは何かを問うときには、常に、既にある何かについての理解を前提としている。キツネたちは、木漏れ日の暖かさが在ることを通じて〈在る〉ことを知るんだ。ところで、木漏れ日はそれが在るかどうかを問うまでもなく在る。木漏れ日は創り出すものではなく、出会うものだよね。
逆にいえば、出会わない限りは存在を理解することはあり得ない。存在するということは、出会う場が存在しているということだ。この存在との関わりを、〈世界の世界性〉などということがある。世界は、キツネたちが存在するものと出会うたびに、いつも、すでに、そこにある。生物が、生きている限りは何らかの存在と関わるものだとすれば、この世界の世界性は、生物の存在構造に帰属する。つまり、キツネたちは何かと出会い、その相互関係を通じて世界を理解するように宿命づけられているし、逆に、世界を通じて自らが出会う何かを理解するように宿命づけられている。そしてこの宿命が自らの存在そのものを成立させている。
さて、以上を踏まえると、物語における作者は、物語世界の創造者であるが、当の世界の世界性はその世界を生きるキャラクターの存在構造に帰属しているということになる。キャラクターが様々な物事と出会い、関係を結び、経験を重ね、生き生きと動き出すとき、世界もその存在を露わにする。ここでもし作者が「当初のプロットからズレ始めた」と感じるならば、それは、元々のプロットの理解がズレていたのだろう。作者は作者でありながら、読者として世界を誤読していたということになる。しかしこれは仕方のないことだ。何かを理解するためには、理解の足場となるものが必要だが、その足場はキャラクターによってしか与えられないのだから。つまり、キャラクターは世界を先取りしている。作者よりも早く。これをキャラクターの先行構造と呼んでもいいだろう。
「キャラクターが存在しなければ、ものそれ自体の姿もまた存在しない。キャラクターが存在しなければ、こういうことは理解可能でもなければ不可能でもない。そうした場合には、世界のなかに存在するものは発見され得るとも、隠れて存在しているとも言いようがない。もしキャラクターが存在しなければ、いかなる世界も現れないだろう。」
キャラクターを〈現存在〉に置き換えれば、ハイデガー『存在と時間』になるよ。ハイデガーに乗っかって言うと、キャラクターはその本質において世界形成的であり、世界を生起せしめるものであり、時間と日々の歩みをもたらすものである。キャラクターは世界内存在として、自らの企てを世界に投げ込むことで世界を変容させることができるし、同時にその変容を引き受けることにもなる。
キャラクターが、世界に向けてどのような企みをもつのか、そして自身がどのような変化を遂げるのか。多くの場合これをプロットと呼ぶだろう。実のところ、キャラクターを離れてプロットが存在することがない以上、「キャラクターがプロットを離れる」ことはあり得ない。しかし、キャラクター自身もまた世界と自分がどのように変化するのかを知らないに違いないのだから、これを温かく見守ったり、ちょっとちょっかいをかけてみたりするのは、作者の特権かもしれないね。
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