赦すことはできるか

◆悪の記憶の禁止

世界史上のあらゆる内戦は、相手方の完全な殲滅に終わるのでない限り、〈忘却〉をもって終わる。忘却は、過去をほじくり、さらなる復讐や賠償を求めることを厳に禁じる。忘却(アムネスティ)なる語が人類の歴史に初めて登場するのは、古代ギリシアの都市間戦争であるペロポネソス戦争においてであった。

法は責任の追及を要請するが、追及に歯止めがなければ陰惨な殲滅へと至ってしまう。歴史上そうした事態は幾度も訪れた。ペロポネソス戦争終結後にアテナイで成立した三十人政権は、厳格に戦争責任を追及し、結果として際限のない報復戦を招いた。これを調停したのはスパルタの王で、和解の条件は「今後一切の責任を追及しあわないこと」すなわち忘却であった。同様に、イギリスのピューリタン革命後にはクロムウェルの手によって大量の虐殺と粛正が行われたが、その混乱を鎮めたのは「免責および忘却の法」である。

共存を図るためには、法による法の停止という特別な措置を必要とする局面がある。「正義に固執することによる死の循環」を問題視したのはカール・シュミットだ。彼の〈友敵理論〉によれば、現代の戦争はすべて敵味方の判然としない内戦状態であるから、わたしたちは忘却の力なくして共存することはできない。

正義とは〈記憶の倫理〉である。しかし、共存するには〈忘却の政治〉が必要であろう。カール・シュミットが強調したのはこういうことだ。


正義の敵を悪と呼ぶなら、その悪の記憶を禁止することが忘却なのだ。しかし、それがいかに困難なことかは、ペロポネソス戦争を見るだけでもわかる。ペロポネソス戦争終結から5年が経つ頃、ソクラテスは死刑となった。罪状は「異教の神を信仰し、青年を堕落させたこと」という曖昧かつ不可解な内容だったが、実際のところ、これが戦争責任の追及であったことは当時の人々にとっては暗黙の了解だった。ペロポネソス戦争の敗因となったアルキビアデスや、三十人政権の構成員であったクリティアスとカルミデスは、いずれもソクラテスの弟子だったのだ。この責任を問いたい、というのが告発者の願いであったが、忘却の義務があるため、青年を堕落させたなどという言いがかりをつける格好となったようだ。裁判の結果、ソクラテスは死刑を言い渡され、それを受け入れた。死の循環を自ら断ち切るかのように。


アムネスティは〈赦し〉とも訳される。ソクラテスの裁判において赦したのは誰で、赦されたのは誰か。裁かれたソクラテスこそが、アテナイを赦し、悪の記憶の禁止を成し遂げたともいえるのではないだろうか。


◆それでもあなたを「赦す」と言う

2015年、アメリカ南部チャールストンの由緒ある教会で、銃の乱射事件が起きた。白人至上主義者が黒人の信徒を銃撃し、9人が命を落としたのだ。犯人の男は陰謀論を信じていた。その陰謀論は、黒人が白人を虐殺し、国を乗っ取っていると教えていた。彼は「真実」を世に知らしめるため、善良な人々が集まる場所を狙った。善人を殺害することで怒りを呼び、注目を買うことができると考えたのだった。理不尽な動機に全米が震撼した。しかし、本当の驚きはその後に訪れた。事件後早々、生存者と遺族は犯人に対して「あなたを赦します」と発言したのだ。


陰謀論は虐殺を招く。シオンの議定書がホロコーストを引き起こしたように、現代でも様々な陰謀論が差別を正当化し暴力を呼び込んでいる。陰謀論の大半が自衛を呼びかけていることに注意しよう。自衛のために他者を排除しようというときに、内戦の引き鉄は引かれる。それにしても、その銃弾を受けとめた人々が、直ちに「赦す」というのはどういう事態だったのか。


背景には、キリスト教の倫理観があったようだ。事件の現場は教会で、被害者たちも敬虔な信徒だった。被害者のひとりが法廷で、犯人に対し次のように語りかけた。


「みなさんに、そしてあなたにどうしても知って欲しいんです。わたしはあなたを赦します。あなたはわたしからとても大切なものを奪いました。もう二度と母と話すことはできません。二度と母を抱きしめることもできません。それでもあなたを赦します。そしてあなたの魂に神様のお慈悲がありますように。あなたはわたしを傷つけた。たくさんのひとを傷つけた。でも神はあなたを赦します。だからわたしもあなたを赦します」


キリスト教において、愛とは赦しである。「コロサイ人の手紙」によれば、人間は神に愛され、赦されている。神が赦しているのであるから、人間もまた人間を赦さなければならない。互いに赦しあうことで調和が保たれるのだ。

もっとも、赦すということは必ずしも水に流すことではない。キリスト教は、本人が悔い改めることを求める。この事件の被害者たちも「赦す」とはいうが、犯人が死刑になることを望む。死を条件とした赦し。この赦しは、悪の記憶の禁止ではなく、神による正義の実現。〈忘却の政治〉ではなく、透徹な〈記憶の倫理〉のようだ。


◆赦すことはできるか

チャールストン教会銃撃事件の例を赦しと呼ぶかどうかは、思想信条によって異なるだろう。しかし、この事件において「赦す」という言葉が飛び出たことによって、死の循環、無際限な報復の連鎖は起きなかったということはいえそうだ。一方で、差別主義は社会に温存されたままだ。2020年にはジョージ・フロイド殺害事件をきっかけにブラック・ライヴズ・マターの運動が盛り上がった。あの運動に対してトランプ政権は軍の投入を予告していた。こうした流れをみると、内戦とは国家の本質的要素なのではないかという仮説も浮かび上がる。つまり、国家内部に生じた対立構造を可視化する手段が内戦であり、国家は内戦を避けるよりはむしろ、穏やかに解決する方法を模索すべきだと。


興味深いことに、『ソクラテスの弁明』を書いたプラトンは、悪の記憶の禁止については一切言及しなかったという。プラトンは故意に〈忘却〉を無視したのだという研究者もいる。プラトンは、魂に葛藤が避けられないように、国家もまた内戦を避けられないと論じていた。おそらくカール・シュミットが〈忘却〉の重要性を説いたのは、この避けがたい内戦に処方箋を出すためだ。しかし、忘却によって放置される悪があるのだとしたら、ただ忘れろ、記憶を禁止しろと要請したところで問題は解消されない。

はたして、ひとはひとを赦すことができるのだろうか。赦してもよいのだろうか。赦さなければ、他者と共存できないのだろうか。虐殺は必然なのだろうか。


◇参考文献

神崎繁『内乱の政治哲学』(講談社)

ジェニファー・ベリー・ホーズ『それでもあなたを「赦す」と言う』(亜紀書房)

クセノポン『ギリシア史』(京都大学学術出版会)

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