遊びと文学

◆ホモ・ルーデンス

人類の文化は遊びのなかで発生した。文化のなかに遊びがあるのではなく、遊びの形式のなかに文化があるのだ。


……これがヨハン・ホイジンガによる『ホモ・ルーデンス』の要点だね。

ここでいう遊びとは、以下の条件を満たすものだ。

・強制されていないこと

・生活上の必要性がないこと

・物質的利益と結びつかないこと

・時間と空間が限定されていること

・特定の規則に従うこと

ペットを飼ったことのあるひとなら、動物も上記の意味で〈遊ぶ〉ことがあるのは知っているよね。ただし、規則の複雑さに関しては人類の理性が抜きん出ている。その複雑さが後に〈文化〉へと自律し、発展していくことになる。

遊びは、日常生活の必要性から自由になったところに生まれる。食べなければいけない、寝なければいけない、用を足さなければいけない、そうした生活上の要請から離れて、気晴らしの一種として、あるいは好奇心の発露として行われるのが遊びだ。遊びが日常から区別されるためには、日常からの分離独立が必要なので、何らかの時間的空間的限定を伴うことになる。そして、遊びを遊びたらしめるのが、その固有の規則、形式なんだ。


◆遊びの形式

さて、それではどのような形式を持つものが、遊びと捉えられるだろうか。

ホイジンガは、〈競争〉と〈模倣〉という形式を提示した。競争とは、自分の知性や身体能力を発揮して勝敗を決するものだね。模倣とは、物真似やパフォーマンスのことだ。いずれも自分の意志に基づくもの。ホイジンガは遊びに文化との連関を認めるが故に、意志とは関わりのないカテゴリーを遊びと捉えるのには忌避的だった。

これに対し、ホイジンガの後を受けて遊びの議論を発展させたロジェ・カイヨワは、上記の二つに加えて、〈運〉と〈眩暈〉という形式を提示した。運とは、偶然の要素を含むもので、賭け事などを想像するといい。眩暈とは、一時的に知覚の安定性を破壊するもののことで、ぶらんこや高い高い、スカイダイビングなどのこと。エクストリームスポーツは競争と眩暈の混合、麻雀は競争と運の混合といえそうだね。つまりカイヨワは、意志に支配されないタイプの遊び、意志を破壊するタイプの遊びがあるということを示したんだ。

カイヨワの分類によれば、競争は意志的で秩序型、模倣は意志的で混沌型、運は脱意志的で秩序型、眩暈は脱意志的で混沌型となる。

上記の四類型について、いずれにもいえることがある。遊びは本能を訓練し、それを制度化する。遊びは本能に満足を与えるが、それは本能を豊かにし、本能自身が持つ毒性からこころを守る予防注射をしているのだということ。なればこそ、文化は遊びのなかで生まれたとまで言えるんだね。国家や制度は消滅しても、遊びは同じ規則を持ち、時には同じ道具さえ持ちながら続いてゆく。文化も同様だ。


ところで、以上の通りであれば、例えば消費社会の性格などもこの四類型との兼ね合いで説明することができるだろう。けれど、ここでは文学のジャンルについて簡単に考察してみようね。キツネにとっては文学こそが遊びの真髄なのだから。


◆文学のジャンル?

文学のジャンルといえば、古典的にはノースロップ・フライ『批評の解剖』が、喜劇、悲劇、ロマンス、アイロニーの四つの文学ジャンルが存在することを指摘していた。彼によると、この四つはそれぞれ認知、破局、相克、混沌という神話の様相と対応しているらしい。しかし、十六世紀以降には悲喜劇と称される作品が多数生まれたし、ロマンティック・アイロニーなんて言葉もあるくらいだから、現代の文学を論じる上で敢えて取り上げる必要もないだろう。ここはせっかくなので、カクヨムで大人気のファンタジーに絞って分析してみよう。


◆ファンタジーという遊び

ファンタジーとは、超自然的な事象を主題や設定に用いる作品のことだ。神話と混同しやすいが、神話が原則として世界の真実や深層を描き出そうと試みていたのに対して、ファンタジーの多くはむしろ現実から身を引き剥がすことを主要な目的とする。敢えて現実と異なる事象を描くことで、そうでなければ描けない何かを描こうとしているのだね。それは現実の諸相への批判であったり、皮肉であったり、誇張であったりする。あるいは、現実になければおかしいのに実際にはないものを告発したり。目的は様々だ。

『ベーオウルフ』や『指輪物語』『ハリー・ポッター』に代表される冒険ファンタジーを遊びの四類型のなかに位置づけてみるとどうなるだろうか。国や世界の命運を賭けた戦い、ドラゴンのような架空の生物との対決。ここでは、まず〈世界の設定〉という時間的空間的限定が重要となる。設定された世界の規則のなかで、知恵と勇気を振り絞って行動する姿を描くのがこのジャンルの特徴だ。そしてほとんどの場合、その世界は必然性に支配されている。行動には根拠があり、帰結には理由がある。以前『だいなしキツネ』で解説したアリストテレスの『詩学』三幕構成論にある通り、行動とは原因と結果を繋ぐ人間の振る舞いのことなんだ。登場人物は幸運に恵まれることも多いが、幸運にさえ理由があり得る。

そうすると、冒険ファンタジーとは、戦いを描く点で競争的であり、現実と異なる世界を思い描くという点で非-模倣的であり、物事に理由があるという点で非-運的であり、現実ではあり得ないような目眩く体験をさせるという点で眩暈的であるということになるだろう。意志的で秩序型の競争と脱意志的で混沌型の眩暈が共存するという異様な事態こそ、ファンタジーの魅力といえるのかもしれないね。

ところで、こう聞くと、いやいやファンタジーには色々あるぞという反論が聞こえてきそうだ。その通り、この議論はいくらでも反論できる。

例えば、2010年代から日本で流行した異世界転生型のファンタジーは、世界の設定について、むしろ中世ヨーロッパを始めとした過去の文明や社会状況を模倣している。また、魔法などの超自然的要素がテレビゲームのシステムに由来していることも特徴だ。ファンタジーというジャンルのなかでも、異世界転生というサブジャンルの特徴は模倣型の遊びであるという点にあるだろう。

あるいは、ツヴェタン・トドロフが論じたような幻想文学についてはどうだろうか。トドロフは幻想文学を、現実と超自然の間でためらいを抱かせるものであり、それは恐怖と驚異の中間にあるとする。ここには競争的な要素はなく、ただ眩暈の強調があるだけだ。

幻想文学と類縁関係にある不条理劇はどうだろうか。それは合理性の解体であり、必然性の破壊であった。つまり偶然性を誇張するという点で運的である。

ことほどさように、ファンタジーと一括りにしたところで様々な属性を有しているのが、いわゆる文学のジャンルというものなんだね。といっても、やはり遊びの四類型によって分析してみることは可能なようだ。いま読んでいる作品が、具体的にはどのような目論見をもって、どのような効果を狙っているのか。遊びとともに検討してみるのも楽しいかもしれないね。


◇参考文献

ヨハン・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』

ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』

ノースロップ・フライ『批評の解剖』

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