シシュフォスの幸福

◆〈いき〉とか

「形而上学のない哲学は寂しい、

人間の存在や死を問題とする形而上学が欲しい。」


そう詠ったのは、九鬼周造。

『「いき」の構造』で有名な哲学者だね。

彼によると、〈いき〉とは野暮の反対で、日本固有の艶とか渋みの混合体だ。その核心をなすのは異性に対する恋、すなわち媚態であり、これは自分と相手との距離にかかわる牽引と離反の二元性を内包している。また、この恋は成就しない可能性として、常に失望の予感と諦めを伴っており、この諦めを物ともしない〈意気〉によって〈粋〉へと昇華する。つまり〈いき〉とは、垢抜けして、張りのある、色っぽさのことだ。これこそが日本的な性格なのだ!


と、言われましても。恋なんて人間のごく一面に過ぎないし、江戸の意気なんて近代の表層に過ぎないし、野暮でいい。と思ったキツネはしばらく九鬼周造を敬遠していたのだけど、敬遠するものほどたまには読み返したくなるのがケモノの習性。『九鬼周造全集』をぺらぺらとめくってみたら、面白いことが書いてあったのでシェアするよ。


◆〈ぶしどー〉とか

九鬼周造「時間論」は、ヨーロッパの時間論と対比される東洋的時間というものを論じたものだ。これはインド→中国→日本と渡ってきた仏教的時間、輪廻転生の回帰的時間の重要性を説くもの。ヨーロッパの時間論が過去、現在、未来の水平方向に流れるものだとすると、東洋の回帰的時間はそれを幾度も繰り返すという形で垂直方向に積み上がっていく。この垂直方向に向けた思考は実証不可能で、曖昧にならざるを得ない。だからこそ壮大な形而上学が生まれる。形而上学的な探究は実証主義的な探究とは異なるものなのだ。(とにかく形而上学が欲しい九鬼である。)

さて、この回帰的な時間について、人間はどのような態度を取るか。仏教には解脱の観念がある。寂滅は聖福なり。意志や欲望を否定することで涅槃へと至り、無為な輪廻から解き放たれる。

しかし、日本には仏教とは異なる道徳的理想が発達していた。武士道だ!

武士道は意志を肯定する。これはつまり否定の否定であり、涅槃の廃棄である。仏教において最高の悪であった永遠の繰り返しが、ここでは最高の善となる。もちろん、無限なる善は完全には実現し得ないだろう。だから、この意志は常に幻滅することを運命づけられている。武士道はこの幻滅を受け入れ、絶えず自己の努力を更新するよう要請する。


「満たされない意志も、実現され得ない理想も、不幸と悲しみの生も、「渇望と苦悩の憂き世」も、要するに永遠に繰り返す「失われた時」も、大して重要ではない。おそれることなく、雄々しく輪廻に立ち向かおう。「幻滅」を明らかに意識して完成を追究しよう。」


武士道だ!の辺りでずっこけそうになったけれど、この引用部分は嫌いじゃないキツネ。雄々しく、は余計かな?


◆シシュフォスの幸福

とはいえ、九鬼の弁舌が冴え渡るのはここから。


「いつも皮相だと思うのは、ギリシア人がシシュフォスの神話の中に地獄の劫罰を見たことである。彼が岩塊をほとんど頂上まで押し上げると岩は再び落ちてしまう。そして彼は永遠にこれを繰り返す。このことの中に、不幸があるであろうか。罰があるであろうか。私には理解できない。私は信じない。すべてはシシュフォスの主観的態度に依存する。彼の善意志、つねに繰り返そうとし、つねに岩塊を押し上げようとする確固たる意志は、この繰り返しそのものの中に全道徳を、従って彼の全幸福を見出すのである。シシュフォスは不満足を永遠に繰り返すことができるのであるから幸福でなければならない。これは道徳的感情に熱中している人間なのである。彼は地獄にいるのではなく、天国にいるのである。」


これ、パッと見はただの逆説だし、九鬼自身は高邁な道徳論を掲げているけれど、すごく素朴な話でもあるなぁと感じてしまったよ。日常はごく平凡に同じことを繰り返す。問われるのは、そこにどれだけの意義を認められるか。幼い子どもが日がな一日、電車ごっこに熱中しているのは、シシュフォスの神話と何ら変わるところがない。しかし子どもはそれで幸福だし、その行為の中で世界と自分の輪郭を形成していく。シシュフォスについて、そしてキツネたちの日常について、同じことが言えないはずはない。自己も世界も完成しない。しかし、完成しない遊びに全力で戯れているときこそ充実している、と考えて悪いことはないよね。


アルベール・カミュも『シシュフォスの神話』の中で、「頂上を目がける闘争ただそれだけで、人間の心を満たすのには充分だ。いまやシシュフォスは幸福だと思わなければならない」というようなことを書いていたけれど、九鬼の方がずっと早かったみたい。カミュはこれを世界の不条理と捉えた。いずれ死なねばならぬ、無意味な人間存在であるが、この不条理を積極的に受け入れることで心は自由になるそうだ。

九鬼の立場は逆だね。むしろ、死は終わりなき生の途上。生とは未完成の探究過程。未完成と正面から向き合うことこそが、世界の条理を形成する原理になる。

あなたは、どちらに魅力を感じるだろうか?


◇参考文献

九鬼周造『九鬼周造全集 1』(岩波書店)

アルベール・カミュ『シーシュポスの神話』(新潮社)

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