存在と時間の美学

◆時間は存在しない

三年ほど前に、カルロ・ロヴェッリ『時間は存在しない』という本がベストセラーになっていたよね。ざっくりいうと、量子重力の理論に則って考えれば、この世に時間という秩序は存在せず、世界はただ出来事が集まって出来ているというお話。ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』の冒頭で宣言されていた内容(「世界は、成立している事柄の総体である」)を物理学的に裏付けたようなものだった。

もっとも、人間の認識作用は時間という枠組を離れることができないようだ。正確には、人間の認識能力の限界こそが、時間や空間といったカテゴリーを要請するのだろう。自己同一性が記憶というものに依存しており、記憶こそが時間という観念を生み出しているのだとすれば、人間存在と時間は骨絡みとしか言い様がない。


◆パルメニデス

存在と時間の関係について最初に考察した人間は誰なのだろうか。少なくとも、西洋思想に甚大な影響を及ぼした思想家は明らかだ。古代ギリシャ、エレアのパルメニデス。彼の著作は断片しか残されていないけれど、プラトン『パルメニデス』やアリストテレス『形而上学』の記載から概要を知ることができる。

彼は、この世界はただ〈ある〉と主張する。〈ない〉ものは無いのだから認識され得ず、考える余地もない。だから、〈ない〉ものがあると考えるのは論理的に矛盾だ。さて、この世界には〈ある〉しかないのだとすると、そこには一切の生成変化がないし、運動もないはずだ。何故なら、生成変化するということは何かが無くならなければならないが、無いものはないのだからあり得ないし、何かが運動するためには物が動く先の何もない隙間がなけらばならないが、隙間とは何かが無いことを意味するのだから、無いものがない以上、あり得ない。つまり、世界とは永遠に単一で不動、不変なのだ。我々の認識作用は、あたかも物事が生成変化し、運動しているように捉えるが、これは仮象を真実だと勘違いする誤った道である。

キツネたちにも馴染みがあるゼノンのパラドクス「飛ぶ矢は止まっている」とか「アキレスと亀」とかは、物事を分節化して捉えることの虚偽を示すために考案された。真実は単一不動なのに、誤って物事を分析的に把握すると、明らかな矛盾が生じるということを示したかったんだね。

パルメニデスの存在論においては、時間とは永遠の別称に他ならず、本質的に静止している。ただ、人間の誤った探究心は、運動を想定せずにはいられないようだ。この点をパルメニデスがどのように捉えていたかは、残された断片から正確に復元することはできない。

ただ、アリストテレスはパルメニデスが素朴な一元論を唱えていたとは考えていなかった。アリストテレスはパルメニデスのアイデアを受けて、「不動の動者・最高善」というものを提起する。世界が運動を始めるにはその始点となるものが必要であり、その始点は揺るぎなき不動のものでなければならない。そしてそれは、人間の究極目的である最高の善を根拠づけるものとなる。

ちなみにプラトンも、パルメニデスのアイデアからイデア説を彫琢しており、この系譜はネオプラトニズム、キリスト教神学へと継承され、西洋思想の骨格となる。


◆ベルグソン

さて、近代に入ると人々は、〈不動の動者〉とか〈神〉とかいう概念を介在せずに存在というものを把握したいと願うようになる。

そこで鍵となったのが、まさに時間だった。

フランスの思想家ベルグソンは『意識に直接与えられたものについての試論』において、人間の生き生きとした意識が直接感じ取るものは、力学的な強度や量ではなく、不断に持続する時間の流れが生み出す勢いや深みであると論じた。宇宙は無際限に延長可能かもしれないが、我々の生は有限であり、つまりその本性は時間だということだ。個々の人格はそれまで生きてきた時間によって特殊なものとなり、その都度の重要な決断において人格の全てが賭けられるという意味で一体的なものとなる。結局、人間における存在とは、その人格がこれまで持続してきた経験の総体、過去の時間の凝縮であり、それをバネにした跳躍である。


◆ハイデガー

以上のように、ベルグソンが時間の過去性を重視したのに対して、むしろ将来性を重視したのがハイデガーだった。かの有名な『存在と時間』だね。

ハイデガーは、現に世界のうちに存在するものを〈現存在〉と呼ぶ。ここでいう世界とは、現存在がその存在の可能性を模索するのに有用なもののネットワークであり、いわば生物にとっての環境のことだ。現存在は、自分の生きる世界を大きな意味の連関、役割の連関として捉えている。これは現存在が自分の生に配慮し、自分の将来を気遣うからだ。世界の中に存在するということは、実際には、将来という未到来の時間に向かって生きることなんだね。現存在が自己の将来を気遣わざるを得ないのは、言うまでもなく自己がいずれ終わりを迎えるから。現存在というものは、目を凝らすと、〈存在の不可能性という可能性〉を背負っている。いずれ存在不可能となる将来を覚悟することが、現存在を有意義たらしめる鍵となる。


◆存在と時間の美学

さて、冒頭を振り返ってみると、〈時間〉というのは客観的には存在しない公算が大だということだった。にもかかわらず、〈存在〉の意味を問おうとすると、どうしても時間というものが付き纏う。時間が人間の有限性に紐付けられた概念だとすれば、ある意味でキツネたちは、自分の有限性と向き合うために時間というものを〈想像/創造〉している。文学では一瞬の出来事を何行、何頁にも渡って描くことがあるだろう。長い時間の経過を一言で表す場合もある。時間に関する詩文は枚挙に暇がない。「花の色は移りにけりな……」「月日は百代の過客にして……」「夜、時間の川は、永遠の未来であるその源泉から流れ……」


逆にいえば、時間的に限りがあるということが生を、文学を価値あるものとしている。キツネたちが享受している文学的精華はいずれ死すべき者にしか放つことの出来ない輝きの結晶体だ。作家も作品も読者も時間の制約を受ける。時代によって作品の受容のされ方は大きく異なる。書かれた時代のコンテクストを共有しない限り、作家が意図したように読むことはできないだろう。しかし、未来の読者は作家本人が経験し得なかった多くの出来事と照らし合わせて作品を味読することができる。また、歴史の流れの中で散逸した作品は数多いけれど、キツネたちはそれらから有形無形の影響を受けた社会で現に生きており、それは失われた時の流れをそうと知らぬままに生きることに相違ない。意味や価値は顕現せずとも存在している。それは人間が有限であり、〈時間は存在しない〉はずなのに存在してしまっているという逆説の真っ只中をまっしぐらに生きているからに他ならない。

あなたの書く作品も、おそらくはその時間の果てに、いずれ誰とも知らぬ人の心の中で、そうとも知られずに輝くことがあるのだろう。それこそが〈存在と時間〉の美学ではないか。


◇参考文献

ロヴェッリ『時間は存在しない』(NHK出版)

井上忠『パルメニデス』(青土社)

アリストテレス『形而上学』(岩波書店)

プラトン『パルメニデス』(岩波書店)

ベルグソン『意識に直接与えられたものについての試論』(筑摩書房)

ハイデガー『存在と時間』(光文社)

ボルヘス『永遠の歴史』(筑摩書房)

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