小説= novel =新奇なもの

◆散文家と小説家

ミラン・クンデラは『小説の技法』において〈散文家〉と〈小説家〉を区別している。

散文家とは、自分が何を書くのかをあらかじめ知っており、その通りに書く人間のことだ。これに対して、小説家とは、書き始めるまでは決して知らなかったような何かを書く人間のことだ。

小説 novel とは、もともと〈新奇な〉という意味の言葉であるから、小説家を未知のものと向き合う存在と定義するのは妥当かもしれない。


◆知らなかったものを書く

それにしても、知らなかったようなものを書くとはどういうことか。

何も考えずに書き始めれば、自分が何を書くかは知らないといえるだろう。しかし、その場合の〈知らない〉が〈新奇な〉を意味するとは限らない。レイモン・クノーは、自分が何の影響を受けているのかを知らない人間は無意識の奴隷になっているだけだと揶揄していた。クノーが批判しているのは、特定のステレオタイプに自覚なく隷属する状態のことだ。この点は、知っているものを書く〈散文家〉にも当てはまるかもしれない。既知の観念に従って書くのであれば、小説の本質である新奇性は欠如している。

こうしてみると、知らなかったような何かを書く、とは、ステレオタイプからの逸脱に臨む、と言い換えることが可能だろう。ミラン・クンデラの言い方を真に受けてしまうと、書き始める前に考えてしまったら小説家ではないかのようだが、ジャック・デリダに言わせれば、人間が存在することは書く(綴り、綴られ、世界に織り込まれる)ことに他ならない。だから、書くことと考えることは区別しなくてもいい。考えながら書き、書きながら考えることなど当たり前だろうし。


◆アイロニー

それでは、ステレオタイプからの逸脱はどのようにして可能か。ステレオタイプとは、壁の一種だ。特定の観念の壁の内部で、人間にはいかなる運動が可能なのかを考える必要がある。伝統的には、有限性との衝突として意識されてきた問題だ。

例えば、18-19世紀のドイツの思想家フリードリヒ・シュレーゲルは、その打開策を〈アイロニー〉に求めた。

アイロニーは、見せかけの意味と現実の意味との食い違いによって生じる。賢しらな人間に「きみは賢い」と伝えることでその愚かさを示唆したり、逆にソクラテスのように、賢い人間が愚か者のように振る舞ったりすることをいう。見せかけを否定したとき、現実が露わになるわけだ。しかし、露わになった現実が見せかけのものではないとどうしていえようか。ソクラテスは賢者の無知を笑うが、一方では自分自身のこともまた無知だと笑っている。シュレーゲルはここに、果てしのない風刺、無限の自己パロディの可能性を認めた。アイロニーは、幸福も不幸も、善も悪も、死も生も相対化する。その中では、欠点や過ちを遊び心に満ちた気持ちで眺めることができる。これは無責任だというよりは、絶対的正しさによって追い詰められることなくゆとりが持てるということだろう。こうした観点に立てば、科学者でさえ自分の発見を相対化しなければならない。その発見もまた仮初めの真理に過ぎないのだから。

つまりアイロニーとは、ステレオタイプの壁の中に対立物を見つけ、その緊張状態を問題化する原理なんだね。この緊張状態において、矛盾する思考は絶えず入れ替わる。ステレオタイプの所産である主観と客観、理想と現実がぶつかり合い、どちらにも決着しない結果として、いずれそのどちらでもない何かへと至る。それは事前には予想できない、自己創造的な交替作用だ。


◆土壇場に立った生の全体像

アイロニーが自己創造的な交替作用だとすると、創作の過程で連想されるのは、推敲作業でないだろうか。一度書いたものに自己反駁を加える中で、全く異なる様相へと変化していくことがある。

ミハイル・バフチンは、ドストエフスキーに引っかけて次のように語っている。「小説の《大きな対話》の全体は、過去に起こったことではなく、いま、すなわち創作過程の現在において起こっていることなのである。それはけっしてすでに終了した対話の速記録でもないし、すでにその場から抜け出した作者が、一段高い決定権を持つ位置にいて、上からそれを見下ろしているわけでもない。……ドストエフスキーのこの大きな対話は、まさに土壇場に立った生の、いまだ閉ざされていない全体像として、芸術的に編成されたものなのである。」……そんなわけで、ドストエフスキーにおいては改稿作業の結果としてとんでもない事件が起きたりする。彼の代表作の一つ『悪霊』では、主人公のスタヴローギンが実にいかがわしい告白をしてしまい、掲載誌から拒絶されるという出来事があった。そこからまた幾度もの改稿が繰り返されたため、『スタヴローギンの告白』というだけで一冊の本に纏められているくらいだ。そもそもこのスタヴローギン自体、ドストエフスキーが何度も改稿を重ねる中でいつの間にか創り出してしまったものだと噂されている。

バフチンは、ドストエフスキーの小説をヨーロッパのカーニバル文化になぞらえて説明しているけれど、カーニバルもまた、シュレーゲルのアイロニー論と同様に、対立する価値の転倒、常軌の逸脱、笑いやパロディによる緊張の緩和を目指すものだから、まさに自己創造的な交替作用の一例といえるだろう。


◆まとめ

なにが言いたいかというと、①小説=novel=新奇なものを書きたければ、既成概念や自分自身への批判が必要である、②その結果として無軌道に生成される作品は作家の意図を超えて傑作であり得る。

既成の価値を追い求めるより、わからないものに向かって身を投げ出してみよう、ということ。


◇参考文献

ミラン・クンデラ『小説の技法』(岩波書店)

レイモン・クノー『棒・数字・文字』(月曜社)

フリードリヒ・シュレーゲル『ロマン派文学論』(冨山房)

R・L・コリー他『愚者の知恵』(平凡社)

ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』(筑摩書房)

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