キッチュ
◆俗悪
〈キッチュ〉という言葉を聞いて、日本人が連想するのはポップ・アートや装飾過剰なファッション・センスのことかもしれない。大衆文化の勃興とともに、反-伝統的な傾向のあるデザインを高く評価しようとした時期が日本にもあり、その標語となったのがキッチュだった。
しかし、キッチュとはもともとは上流階級がブルジョワに向けた侮蔑の言葉だ。通俗とか俗悪とかいったニュアンスをもつものだったんだね。
ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』は、キッチュを次のように表現する。
「キッチュは続けざまに二つの感涙を呼びおこす。第一の涙はいう。芝生を駆けていく子供は何と美しいんだ! 第二の涙はいう。芝生を駆けていく子供に全人類と感激を共有できるのは何と素晴らしいんだろう! この第二の涙こそ、キッチュをキッチュたらしめるのである。 世界のすべての人びとの兄弟愛はただキッチュの上にのみ形成できるのである。」
ここには〈同調〉への嫌悪がある。群衆の群衆たる所以、すなわち熱狂への傾きはこのキッチュの働きにあると警戒しているようだ。例えば戦争に抗議する人間が戦車の前に横たわるのは、まさにキッチュのなせるわざだと。
関連して、ウラジーミル・ナボコフは、俗物を指し示す言葉として、ロシア語の〈ポーシュロスチ〉を紹介する。ポーシュロスチとは、屑であることが誰の目にも明らかなものをいうだけではなく、むしろ、偽りの重要性、偽りの美、偽りの知恵、偽りの魅力をいう。その典型例は、旧ソヴィエトの政治体制やアメリカの広告ビジネスに見出せる。
「俗物は文学や芸術のことは何一つ知らないし、知ろうともしないが、情報は求めているし、雑誌を読む習慣は身につけている。そして本を読むときは登場人物に自分を重ね合わせる。男の俗物の場合、彼が自分と同一視する相手は、魅力的な青年重役、あるいはそれに類した大物で、お高くとまっている独身男だが、心の中ではゴルフのことしか考えていない少年のような人物である」
「俗物根性は国際的である。それはすべての国、すべての階級に見出される。俗物根性は単にありふれた思想の寄せ集めというだけではなくて、いわゆるクリシェ、すなわち決まり文句、色褪せた言葉による凡庸な表現を用いることも特徴の一つである。真の俗物はそのような瑣末な通念以外の何ものも所有しない。通念が彼の全体の構成要素そのものなのである」
キッチュやポーシュロスチは一見したところ危険ではない。しかし、外在する価値が人間の内面を制圧しているという現実に着目すると、些か恐ろしい。
◆熱狂へと至る道
アーサー・ミラー『るつぼ』やフリードリヒ・デュレンマット『貴婦人故郷に帰る』は、人間が正義の観念に酔い、他者を殺害する様を描き出す。正義は裁きを要請し、裁きは殲滅を志向する。それを後押しするのが〈熱狂〉だ。熱狂は人々を一つにまとめ上げ、個人を群衆へと変貌させる。群衆は大鉈を振るうことに躊躇がない。そのことは昨今のSNSの騒動を一瞥するだけでも明らかだろう。これは今も昔も変わらない人間の性なんだね。
さて、この兆候を、最も早く捕捉するものこそが、キッチュやポーシュロスチという概念ではなかろうか。社会的に共有された価値への一体化、美徳に彩られた兄弟愛、これらは決して法的に非難されないが、だからこそ、これを相対化する目線がわたしたちの間に存在しない限り歯止めが利かない。キッチュ、ポーシュロスチ、そしてポリフォニーや可謬性の自覚といったものは、こうしたものへの対抗言論のひとつなんだ。
熱狂へと至る道はいつでも開かれている。その道を進む者たちは無垢で、純朴で、勇ましく、快活な表情をしている。日向をゆく者たち、マジョリティに立つ者たち。彼らに背を向けて歩くのは決して容易ではないだろう。けれど、社会にはそうした行為が不可欠だということは認識しておきたいところだ。芸術が反社会的である所以だね。
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