言霊

◆言霊の幸ふ国

神代より 言ひ伝て来らく そらみつ 大和の国は 皇神の 厳しき国 言霊の 幸ふ国と 語り継ぎ 言ひ継ひけり…… (万葉集 巻五・八九)


言霊とは、言葉に宿る不思議な霊力のこと。コトにタマが宿ってコトダマだね。

出典とされる万葉集には事霊という表記も見られる。もともと言と事とは語源を同じくするようだ。ここには、言表と事物が一致するという素朴な実在論が認められようか。

一方、タマとは霊魂や神霊のことで、超自然的な不思議な働きをなすもののことをいう。魂のタマ、荒御魂(アラミタマ)のタマ。


言霊という言葉は万葉集に見られるが、平安期以降しばらくは用例がない。日本古来の言霊信仰に注目したのは江戸期の国学者たちだった。

もちろん、言霊という語が用いられなかったからといって、言葉に宿る特殊な力への信頼がなかったと決めつけることもできないだろう。キツネたちが言霊に関して具体的なイメージを持っているのは、むしろ古今和歌集の仮名序にある次の一節の影響ではないか。


やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事、業、繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの、聞くものにつけて、言い出せるなり。花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をも哀れと思はせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり。


紀貫之の名文だね。ここでは、言葉と自然とがダイレクトに感応している。言葉の力が天地をも鬼神をも動かすのだから、言霊は凄まじいね。人間以外のものに言葉が通じるという信念は、森羅万象に霊性が宿るというアニミズムと根を等しくする。例えば、英語の

echo について、日本語では木霊といったり山彦といったりもするよね。人間の呼びかけに、木の霊や山の霊が応えているという想像だ。万物に共通の原理を認めること。これを大陸では〈天〉と呼んだ。日本の言霊信仰は、そのバリエーションといえるだろう。

もっとも、天の思想をそのまま受け入れたというよりは、天の思想と拮抗しながら、言葉への信仰を深めたと捉えた方がよいかもしれない。大和言葉はもともと文字を持たなかった。その言語が語り継いだのは政治の言葉ではなく、歌だった。万葉集であれ古事記であれ古今和歌集であれ、それが編纂されたのは、日本が大陸からの独立を志向し、国家としてのアイデンティティを深めようとしていた時代。大和言葉には独自の力がある。その信念こそ、言霊信仰の核心なんだ。


◆言霊の構造分析

江戸期において、言霊の原理を構造的に分析してみせた稀有な例が、富士谷御杖の言霊倒語説だよ。この人は、江戸期にあって20世紀の構造主義言語学を先取りしたような議論を展開していた。

富士谷御杖によれば、

・言語は、彼我の間の情を通わせる。

・もっとも、情は直接言い表すことができない。直接言い表すことができるのは、行為や事物である。

・歌とは、行為や事物を描写することを通して、情を他者に伝えようとするものである。つまり、情は事(コト)に託される。

・直接言い表すことのできない情を他者に伝えることを助けるものが、言霊である。

・言い換えると、直接的な言及には言霊はない。

・直接的でない、転倒した表現方法のことを〈倒語〉という。

・倒語には二種類ある。

・一つめは比喩。花が散るのをもって無常を思わせる。現代の修辞学でいうところの隠喩。

・二つめは外へそらすこと。恋人の家を眺めることで、恋人に会いたい気持ちを詠む。現代の修辞学でいうところの換喩。

・言葉には、〈表〉と〈裏〉と〈境〉がある。例えば、松は柏でも榊でもないということで名づけられている。この世に柏も榊もないのであれば、敢えて松と名づける必要もない。松という言葉の裏には必ず松以外の何ものかがあり、裏があるということは、表と裏の境があるということだ。

・「見る」という言葉が表だとしたら、裏は何だろうか。これは文脈によって異なる。「見ない」かもしれないし「聞く」かもしれないし「思う」かもしれない。裏によって境が変わる。あるいは境によって裏が変わるというべきか。この曖昧な部分にこそ言霊はある。

・言霊は正邪に関わらない。たとえ文法的にあやしい点があったとしても、そのあやしさ、言うと言わざるとの間で発せられた言葉の向こうに言霊はある。


人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける (紀貫之)


・この歌の解釈でいえば、表は「人の心のうちはどうあるか知らないけれど、ふるさとの梅の花は昔通りの香りがする」、裏は「人というものは言葉と心が異なることがあるけれど、心のない梅の花こそ本来なら昔を忘れてしまいそうなものなのに」、境は「人は昔のことを忘れたのかもしれないが、梅の花はこちらのことを忘れずに待っていたようだ」、そして言霊は「言葉と心とは違う。言葉はどのようにでも利口に用いられるがゆえ、人ほど心のうちの知れぬものはない」というように働く。


このように、言葉が言外に表現する意味を媒介するための原理が言霊なんだね。

ちなみに、隠喩と換喩は20世紀の思想において重要な地位を占めている。例えば、ジャック・ラカンによれば、人間の欲望は換喩的な構造を持っている。しかして精神疾患を抱える者の症候は隠喩的構造を持っているという。比喩が人間の存在条件を規定しているという議論さえある。

こうしてみると、言霊信仰は現代の思想水準にはそぐわない原始的な宗教だと切って捨てるわけにもいかないようだ。

言霊信仰とアニミズム、アニミズムと魔法世界の繋がりを思えば、ファンタジー小説を考えるよすがにもなるだろう。ただ、ちょっと面白いのは、言霊信仰を有している人にとっては、異世界ファンタジーの魔法詠唱もまたリアリズムとして読めるかもしれないということで(紀貫之なら「ああ知ってる。おれも天地を動かす」と言ったかもしれない)、作品というのはいつの時代も読者に試される。500年後、1000年後の人類に自分の作品がどう読まれるかを想像するのは、とても愉快なことだ。言霊信仰が衰退するとは限らないぞっ。


◇参考文献

今野真二『言霊と日本語』(筑摩書房)

G・レイコフ他『レトリックと人生』(大修館書店)

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