天の生命

◇ご挨拶

こんにちは、だいなしキツネです。

今日は東洋思想にひろく横たわる〈天の思想〉を紹介していくよ!

 

◇天の思し召しから天命へ

東洋には広く天の崇拝が見られる。この場合の東洋とは、日本どころか中国をも越えて、ユーラシアステップ全体を含む地域のことだ。この地域にはシャーマニズムが浸透していた。その特徴は、神の御言葉を伝える巫(神子)が存在していること。日本では卑弥呼が有名だ。卑弥呼とは「ひみこ」=「日巫女」ではないかという説が有力だね。

 

シャーマニズムからは天地全般、動物全般にまで神性を認める汎神論が生まれやすい。この神々の頂点に座するのが天の神だというわけだ。天の崇拝はユーラシアステップの遊牧民によって周王朝の頃に中国へと持ち込まれた。そのうちに人格神としての性格が脱落し、非人格的な法則的存在へと昇華していく。「天の思し召し」と聞くと人格を思わせるけれども、「天性」とか「天命」とか聞くと、自然や運命そのものを連想させるよね。

中国思想は諸子百家の時代には既に宗教的なものから政治的なものへと変貌していた。そのドライな世界観の中で、〈天〉は万物の支配原理としてその価値を改めていく。

孔子はいう。「天何ぞ言わんや、四時めぐり、百物生ず、天何ぞ言わんや」……天は言葉を用いるのではなく、四季がめぐり、万物が生じるという、その事象の中にある。時代がくだり、12世紀の宋の朱子学になると「天とは理なり」と明言され、天が法則的な存在であることが前提とされていた。

 

◇汎神論的世界観の特徴

天の神が自然法則に変貌を遂げると、キツネたちの生活はすべて天との関わりの中にあるということになる。これは世界観の一大転換だ。

キリスト教のように創造神の存在を前提とすると、人や自然はその被造物に他ならない。神とこれらは分断されている。自然は神によって人に与えられたものだから、人と自然との間にも分断があるといえるだろう。

これに対して、汎神論のように神性が自然法則として事物全般に行き渡ることを前提とすると、神と人と自然とは連続した関係に立つ。天は神であると同時に天空であり、自然である。天は万物のうちに宿り、人間のうちにも宿る。

 

また、人格神を前提とすると、事物は対立や差異によって捉えられることが多い。例えば、キリスト教においては善と肉の区別は深刻だ。七つの大罪が肉の欲望に紐づけられていることを見よ。キリスト教では禁欲が美徳とされる時代が長く続いた。

これに対して、汎神論は事物をまず融合の形で捉えようとする。かの有名な太極図も、陰と陽の融合のあり方を示したものだ。孟子が善政とするのは、民衆の欲望を適度に満足させる政治のことだった。中国には節欲の思想はあるが禁欲の思想はないといわれる。善と肉も連続的なんだね。

西洋思想を形づくったのは、プラトンのイデア論だった。これは理想と現実を断固として区別するものだ。一方、東洋思想において理想は現実と接している。孟子は「道は近きにあり、しかるにこれを遠きに求む」と論じた。真理は近いところにあるのに、人はそれを遠く離れたところに求めようとするなぁ、という指摘で、なんならプラトンにぶつけてみたいお話だね。彼らはぎりぎり同時代人。白熱のバトルに期待したい。

 

◇天性と天命

天性とは、人のうちに宿る天のことをいう。天は万物のうちに内在する。人間も例外ではない。

孟子が唱えた性善説は、人のうちに天が宿っているという思想を前提としていた。天が宿っている以上は、それは善そのものであって、これに適切に従うことができれば万事うまくいくはずだよということ。だから、性善説はある意味では汎神論の申し子なんだね。性善説を前提にしたところで、実際には悪事に対処しなければならないし、その原因も突き止めなければならない。だから後世の朱子学では、人間の天性である〈理〉と、人間を個性づける〈気〉とを区別し、気によって色々な不純物が持ち込まれることを制御しなければならないと考えるようになった。理が万物の同一性を基礎づける原理だとしたら、気は万物の多様性を基礎づける原理だ。

 

天命とは、人を外から制約する運命のことをいう。天の超越性を示唆するものだね。天が人格神であった頃には、天命とは神の命令に過ぎなかったけれど、非人格化するにつれて、人の能力の限界を示唆する概念となった。人の内側に天が宿っていたとしても、人は決して万能ではない。これを自覚するための概念だとしたら、天命をただの運命論だと分類することはできないだろう。「人事は畢(おわ)れりただ天命を待つのみ」という言葉は、結果に一喜一憂するのではなく、ただ自分のなすべきことに専念しようという宣言に他ならない。天を待つ生き方とは、天(自然)をコントロールしようという近代合理主義的な発想からは遠く隔たっている。

 

天性と天命。あわせて性命という。これが転じて生命という言葉が生まれた。

キツネたちの生命は、天の思想とともにある。

 

日本に浸透している仏教はいったん中国を経由している分、上記の思想を大なり小なり受けている。万物に仏性が宿るといったりするよね。これは天性のバリエーションだ。

人間社会を考えるときには、まず自分の生命に、そこに息づく天の思想に思いをはせてみるのもよいんじゃないかな。

 

というわけで今日のお喋りはここまで。

また会いに来てね!

 

◇参考文献

石田英一郎『桃太郎の母』(講談社)

森三樹三郎『中国思想史』(第三文明社)

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