パラドクシア・エピデミカ

◇迷宮への誘い

かつてバビロニアの王は、誰もが道に迷う青銅の迷宮を作り上げた。混乱と驚異は本来神の御業であるため、そのような行為には誰もが呆れていた。あるとき、バビロニアの王はアラブの王を宮廷に招いて、アラブの王を迷宮に閉じ込めた。アラブの王は屈辱にまみれながら彷徨い歩いた。幸い神の助けがあり、アラブの王は出口を見つけた。アラブの王はバビロニアの王を捕らえると、ラクダの背に縛りつけて砂漠に連れ去った。そして三日間ラクダを走らせ、戒めを解いた。そこは、人間には決して出ることが叶わない神の迷宮だった。神の迷宮には何もない。登るべき階段も、押し開けるべき扉も、駆け巡るべき回廊も、行く手を阻む壁もない。


以上、ボルヘス「二人の王と二つの迷宮」の概要だ。これは20世紀に書かれたパラドクス文学で、パラドクス文学それ自体の寓話ともいえるだろう。さて、パラドクス文学とは何なのか。キツネと一緒にこの迷宮を覗いてみないかな?


◇パラドクス文学の起源

パラドクスとは、一見正しそうに思われる事柄に反することを述べること。これには論理的な性質を持つものと、修辞的な性質を持つものがある。


論理的パラドクスは言語の構造上解決できない。代表的なのは〈アキレスと亀〉や〈嘘つきのクレタ人〉だね。これらは前提を真とすると結論に疑義が生じるように仕組まれているため、そもそもの論理や規範の相対性を示唆することになる。あくまで示唆されるだけだというのが面白いところで、仮に「絶対に相対的だ」と主張し始めるとこの時点でまた論理的パラドクスが成立してしまう。論理的パラドクスは、論理の向こう側にあるキツネたちの生活世界の豊穣さを予感させてくれる。


一方、修辞的パラドクスは主に雄弁術の一環として嗜まれた。取るに足らない胡桃を称賛したり、愚かなロバを称賛したり、専制君主や暴君を称賛してみせたりして、その弁論の実力を示してみせたんだね。これが何の役に立つかというと、本来有罪な者を無罪にしたり、無能な者を政治家に仕立てあげたりすることができる。というわけで、直接民主政を取っていた古代ギリシャのポリスでは、雄弁術は金の成る木でもあったんだ。これだけ聞くと唾棄すべきものだよね。だから、かのソクラテスはこうした雄弁家を貶してまわっていた。しかし、修辞的パラドクスの価値は意外と軽視できないものであったことが、後々明らかとなる。


◇オーソドクトスへの懐疑

古代ギリシャのパラドクスは、ルネサンス期のヨーロッパで再発見され、多くのパラドクス文学の執筆に繋がった。ルネサンス期は人文主義が花開いた時代でもある。人文主義が対決したのは、人間の〈ありのまま〉を疎外する政治権力や宗教的権威だ。ここで何が起きたのかというと、パラドクスがオーソドクス(正統)を批判するための文学的手段となったんだ。例えばモンテーニュの『レイモン・ド・スボン卿弁護』は従来正統とされていた宇宙的階層秩序という観念を弁護するフリをして、実際にはこの観念の無効性を証明してしまう。エラスムスの『痴愚神礼賛』は痴愚の女神を礼賛することで、(エラスムス本人の意図とは反して)反カトリックの急先鋒となる。シェイクスピアの『ヘンリー四世』は〈馬からおりた騎士〉というパラドクスを通じて貴族制の価値を問う。『リア王』にも登場する賢い道化は、知ある無知の体現者として広くヨーロッパで親しまれた。


パラドクスは決定不可能性の境界を遊動する。だからその文学は曖昧さを自らの業として引き受ける。これは安定を志向するオーソドクスとは対照的な営為であるため、いつも毀誉褒貶の対象となる。


◇屈折の表現者

オーソドクスを批判の対象にするというと大仰で高邁な精神を感じるかもしれない。しかし実際にやっていることは単なる言語遊戯に過ぎない。直裁に表現すると他愛なかったり角が立ったりするから屈折させて表現するんだね。

例えば「死って何だか分からないよね」ということを言ってみるために、次のような表現をする。


「かくて人間を喰らう者たる死を汝が喰らい、死が死に果ててはもはや死ぬこともない。」(シェイクスピア)


「短き眠りは過ぎて我らは永劫に目覚める。死はもはやない。死よ、汝は死ぬ」(ジョン・ダン)


単なる死の表現だ。けれど、こうして歪曲化された死のイメージは、キツネたちに新鮮な印象をもたらさないだろうか。死という概念を追究していくと、確かに死すら死すべき定めにある。これは、〈死〉というものが言わば逃げてゆく鏡として、人間を常に映しながらも決して到達できないものであることを理解させる。死の観念が宗教的権威のもとで安定していれば、こんな懐疑には大した価値が見出されなかっただろう。しかし時代は移り変わった。


◇パラドクスとオーソドクス

パラドクス文学は、知のあり方が混沌とした時代にこそ瀰漫する。パラドクスは競合する価値体系を扱うため、時代の価値観が変化すると真逆の評価を受けることになる。最も有名なのはコペルニクスのパラドクス。彼の地動説は当初パラドクス呼ばわりされたが、今では立派なオーソドクスだ。こうした事情をみて、ハムレットの台詞を思い出す人も多いかもしれないね。


「これは昔はパラドクスだったが、今では時代がその正しさを証明してしまっている」


パラドクスが遊動するように、オーソドクスもまた流動する。昭和、平成、令和と経て、社会事情や道徳意識がどんどん変化しているのを感じないかな。こんな時代にこそ、特定のオーソドクスに固執するのではなく、パラドクスの迷宮に踏み込むのもよいかもしれない。そこには雲一つない青空と見渡す限りの地平線が広がっていて、あなたを拘束するものは何もない。何を為すかはあなたの意思次第。


……しかし、これが望ましいこととは限らないよね。自由という牢獄は、現代人が向き合わなければならない最大のパラドクスの一つだ。……


というわけで、今回のお喋りはここまで。迷宮に誘っておいて放置するという王さまたちの真似をしてみたよ!

また会いに来るね!


◇参考文献

E.R.クルツィウス『ヨーロッパ文学とラテン中世』(みすず書房)

ロザリー・L・コリー『パラドクシア・エピデミカ』(白水社)

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