ポリフォニー、ゆえの思想の自由市場
◆イントロ
今ではミハイル・バフチンの名前を知らない文学研究者はいないだろう。しかし、バフチンの研究を知らない哲学研究者はいるし、ましてや法律関係者の中にはバフチンのバの字も知らない者が少なくない。彼らにとってはバフンウニの方が有名なくらいだ。
でも、バフチンの思想が現代社会において避けては通れないものだということを、ここでキツネが簡単に紹介しておこう。
◆バフチンとは?
ミハイル・バフチンは、1895年にロシアで生まれた思想家だよ。バフチンのことを単なる文学研究者だと勘違いしている人もいるけれど、これは誤りだ。彼は若い頃から哲学思想、社会思想に関する論考を発表しており、自分を哲学者だと説明している。生涯を通じてなかなかの苦労人で、ロシア革命の混乱に巻き込まれては流刑されたり、骨髄炎に苦しんでは右足を切断したりしている。晩年に至るまで世界的には無名だったけれど、東欧では一目を置かれていたようだ。1960年代に入って、ジュリア・クリステヴァが彼をフランス思想界に紹介したことが西欧で名声を博するきっかけとなった。バフチンの議論はポストモダン思想に先駆けてポストモダン的だった。
◆存在におけるアリバイなし
彼の思想の重要な特徴は、その〈参加的〉思考にある。これは〈理論的〉と対置される概念だ。キツネたちは単に理論的思考の対象として世界に関与しているのではなく、常に世界で生じている出来事に参加している。この参加的な意識こそが、ひとを世界に関わらせる。そうだとすると、その前提には、参加の主体となる個が断固として求められるはずだよね。個々人は世界の一部として存在しているのではなく、唯一無二の個人的価値を有しており、その資格/視角から世界に参加することによって、初めて一つの世界が形成されるんだ。すなわち、多数性があってこその世界、自立している複数の声があってこその世界というわけだ。
そして、人間存在は、それが存在しているという厳然たる事実によって、参加から逃れられない。これをバフチンは「存在におけるアリバイなし」という。人間は、この〈アリバイがない〉という真理において、空虚な可能態を責任ある現実的行為に変えることができる。つまり、人間の主体的行為は、参加への責任意識によって、内側から可能になるんだね。これは、人間の行為を宗教的宿命論や科学的決定論から解放する契機となる。
素朴な〈参加〉の感覚から〈個=唯一の声〉とその行為哲学を導き出すのが、バフチンの鮮やかな手腕だよ。
◆ポリフォニックな世界
個々の唯一の声が唯一たり得るのは、他者との関わりの中で識別され、これらが相互に対立するからだろう。
この世界観を、バフチンは〈ポリフォニー〉と呼ぶ。ポリフォニーを基礎づけるのは、自立している複数の声、十全な価値をもった意識たちだ。十全な価値を持つということは、例えば物語においては、登場人物が作者に対してさえ自立しているということだ。例えばドストエフスキーの作品においては、端役でさえ強固な思想を持ち、主人公の思想を転覆させる可能性を秘めている。そしてその可能性は最後まで解消されない。
仮に作者と登場人物の思想が完全に一致してしまうのであれば、それは単一のメッセージを発信する倫理学的な物語となるだろう。トルストイのように。しかし、厳に対立する意識の持ち主が相互に他者として立ちはだかり、その対話を通じて一つの世界を形成していこうと試みるのであれば、それは唯一性と多数性が両立する芸術的な物語となるだろう。
ポリフォニーの概念はキャッチーだから批評家が用いやすい。その割に誤用が多いというのが現状だ。キツネは以前、バルガス=リョサ「子犬たち」をポリフォニックだとする批評を読んで唖然としたことがある。あの作品は男性器を噛み切られた少年が社会から疎外される過程を描くのだけど、これはファルス中心主義の風刺であって、決して多様な意見対立の様相が描かれたものではなかった。むしろ、男性器を噛み切られたら大変に違いない、という単一のメッセージに支配されていたんだね。にもかかわらずこれがポリフォニックだと言われたのは、この作品が多視点型の小説だからだよ。キツネが注意して欲しいのは、多視点だからといってポリフォニックだとは限らないということだ。多数の登場人物が一つのメッセージに収斂していくのであれば、それはモノローグ的な作品だよ。
同じように、数多の登場人物が入り乱れながらもただ一つの孤独に収斂してゆくガルシア=マルケス『百年の孤独』もまた極めてモノローグ的な作品だったね。
ちなみに、キツネはモノローグ的な作品がポリフォニックな作品と比べて価値が劣るとは考えていない。トルストイが良い例だ。完璧に構成された世界において、一つの強固なメッセージを届けるために登場人物が活発に奮闘する。それがモノローグだとしても、そうして表現された思想は、まさに唯一無二の価値をもった一つの声に他ならない。ポリフォニーが世界の多数性を支える原理だとすれば、それは一個の作品内部にとどまらず、これを受けとめる社会全体の問題だ。モノローグ的作品が社会に届けられ、他者である読者がそれぞれの形で受容し己の見解を差し戻すことで、真に多数性のある社会は実現されるだろう。ポリフォニーの概念は必ずしも一つの作品内部で完結するものではないんだ。
もっとも、ポリフォニー的世界観を一つの作品で表現してしまったドストエフスキーは、こうした世界解釈を明確化する点で特別な地位を占めるとはいえるかもしれない。
◆思想の自由市場
ところで、冒頭で法律関係者を引き合いに出したのには理由がある。バフチンが重視するポリフォニーは、憲法上、表現の自由を基礎づける理論としても参照しうるからだ。
思想の自由市場という言葉を聞いたことがあるだろうか。これは、真理の最良のテストは自由な競争において自らを受け入れさせることであって、思想を積極的に規制するよりも、自由に委ねた方が真理の発見と普及には有効であるという考え方だ。長いこと表現の自由の基礎づけに用いられ、違憲審査において鍵となる概念だったけれど、近年に至って懐疑の目に晒されている。SNSの普及の影響もあって、ヘイトスピーチや誹謗中傷に歯止めが利かなくなっているからだ。公算もなく自由に委ねていては、既存の抑圧構造がダイレクトに反映されてしまうだけではないかという疑問があるんだね。
この問題の根本には、そもそも思想の自由市場論が単なる仮定や理想論に依拠しており、その哲学的な基礎づけを怠ってきたという歴史がある。なぜ思想を自由に委ねれば真理に接近できるのか。どういう仕組みでそれは実現されるのか?
その展望を与えてくれるのは、バフチンのポリフォニーの理論ではないか。
つまり、世界は現に唯一性と多数性によって成り立っており、これを排除する原理は真実から目を背けることに他ならない、と。ヘイトスピーチや誹謗中傷が否定されるべきなのは、それが他者の存在を否定しており、唯一性の原理に反するからだ。
こうした視点を提供してくれるのが、バフチンのポリフォニー論なんだね。バフンウニを食べながらでもいいからバフチンを読もう。
というわけで、今回のお喋りはここまで。
また会いに来てね!
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