作者の生

◆ご挨拶

こんにちわ、だいなしキツネです。

今回は〈作者の死〉について考えていくよ。


◆作者の死

しばらく前に、フランスの思想家ロラン・バルトは『作者の死』を発表した。作品は作者の意図に制約されるものではなく、現在と過去の様々なテクストから形成される織物に他ならないという。この見解はニーチェの「神は死んだ」に準えられ、従来の、作者の意図を重視する作品論から、読者の読書行為を重視する作品論へのパラダイム・シフトを示していた。

実際のところ、ニーチェが「神は死んだ」といったときには既に近代合理主義への移行が済んでいたように、『作者の死』が発表された当時には既に作品論のパラダイム・シフトも完了していたといえる。プロップの『昔話の形態学』は1928年、ボルヘスの「ドン・キホーテの著者、ピエール・メナール」は1941年、レヴィ=ストロースの『神話の構造』は1955年、これに対して『作者の死』は1967年だ。作品読解が既に作者の意図を離れ、文脈依存的なものであることは構造主義の発展とともに明らかになっていた。

とはいえ、標語は大事だよね。『作者の死』はそれなりにセンセーショナルに語られることとなる。


ところで、作者は死んでますか?


確かに、キツネはそれほど作者の意図を重視しない。作家の意図に縛られずに読むことを大切にしているし、創作においては〈作家の意図とは無関係に現に表現されてしまっている意味〉が多数あることを知っているからだ。シェイクスピアやキプリングの差別性を問題視することは容易だけれど、作家がそれを意図していなかったことは明らかだよね。


◆作者の生

でも、これが直ちに作者の死を意味するわけではない。同じく創作の現場に立つと、例えばこんなことがあった。

戯曲執筆のお手伝いをしているときのこと。


作家さん「序盤をこんな風に書いたのだけど、続きをどうしたらいいかわからない…」

キツネ「ラストのイメージはありますか?」

作家さん「わからない…」

キツネ「序盤で既にこの登場人物がこう言っているということは、この人はこういう考えの持ち主ですよね。これに対して、この別の人物がこう言っているということは、この二つの見解の対立があなたの中で問題になっていると思うのだけど、そのことについて考えはありますか?」

作家さん「結論は出ないのだけど、いつもかくかくしかじかと悩んでいることがあります」

キツネ「では、その悩みを反映させた別の登場人物を出して、新たにこんな展開を目指してみましょうか。そうすると次はこういう場面になりますけれど…」


などとやり取りするうちに、そもそも作家さんが何を書きたかったのかが明らかになってくるんだね。

これは、書かれたものの中に、悩み抜く作者が現に息づいていることを意味する。


批評は作家の意図とは無関係に執筆してよい。その意味で、作者は死んだだろう。

けれど、読書は作家の生を感じ取る時間であり続けているのではないだろうか。作家と出会う場所としての読書。それはわたしたちに、決して直接出会えなくても共に生きてゆける〈他者〉の実感を与える。これも大切な経験なんじゃないかな。


といったところで今日のお喋りはおしまい。

また会いに来てね!

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