映画的存在論

◆ご挨拶

こんにちわ、だいなしキツネです。

今日は、現代の新しい存在論として、いわば〈映画的存在論〉とでも呼ぶべきものを紹介していくよ。これはマウロ・カルボーネ『イマージュの肉』とミリアム・プラトゥ・ハンセン『映画と経験』に触発されて、キツネがテキトーにこしらえたものなので真に受けなくて大丈夫だよ!


◆古典的な存在論

先に古典的な存在論について触れよう。一番有名なのはプラトンだ。「現実はイデア(理想的世界)の模倣だ」というやつ。ここから、一神教的な存在の階梯理論が生まれたり、いったんイデア的な前提から離れて「全部疑ってかかろうよ 」というデカルトが生まれたり、「意識に与えられたものをベースとして考え直そうよ」というベルクソンが生まれたり、「誕生と死の間の伸長を問おうよ」というハイデガーが生まれたりした。

これらは〈現に目の前にあるもの(顕在的なもの)〉への強いこだわりがある。まぁ、当たり前だよね。存在論とは、在るとは何かを問うものなのだから。

でも、これから述べる新しい存在論は、そうしたこだわりを捨てるものになるかもしれない。


◆映画的存在論

手がかりを与えてくれるのはモーリス・メルロ=ポンティだ。メルロ=ポンティは、映画の特徴ついて次のように語る。


「一つの映像の意味は、映画のなかでそれに先立つ諸々の映像に依存しており、それらの連続性が、使われた諸要素のたんなる集積ではない新しい現実を創造するのである。」


ある映像から特定のシークエンスを排除または挿入すると、それ以外の部分の意味も変わってしまう。これは作家や映像製作者にはよく知られた事実だね。

これと同様の発見が哲学、心理学にも見られた。有名なのは、要素主義的な心理学からゲシュタルト心理学への移行だ。キツネたちの知覚に現れるのは、個々の要素ではなく全体のまとまり(ゲシュタルト)であり、ゲシュタルトの理解こそが心理学の対象であるという議論だよ。メルロ=ポンティはこれを映画と哲学の歴史的一致という。

これは、映画と人間存在が、ともに時間の形態を取るということだ。時間的秩序なしに映画は存在しえない。同様のことが人間の存在にも当てはまる。ある経験の意味は、その前後の経験や、経験を生じさせる場の存在と切り離して論じることはできない。無時間性とか永遠性とかは存在にとっては虚妄なんだ。


ところで、映画の意味はその上映のリズムと一体化しているがゆえに、感覚と区別され得ない。つまり、映画作品のもつ意味を正確に言葉として概念化することはできない。

同じことは、キツネたちが他の芸術を味わう経験についてもいえるだろう。たとえば詩を読むとき、詩そのものは言語的に紙面に定着しているかもしれないけれど、その読みの経験は時間的秩序、読み手の生のリズムと区別し得ない。芸術が読み手との接触においてその都度、一回限りのものとして生起する所以だね。

さらに同じことは、キツネたちの存在そのものにもいえるのだろう。キツネたちの存在の意味は、現に生きているその感覚とともに生成され続けており、これを一つの表現に固着することはできない。


加えて、映画は次のことを問いかける。事物の連続性は、人間の存在にとってどういう意味を持つのか?

映画は静止画の組み合わせだ。これはゼノンの空想(※飛ぶ矢は止まっている)が具現化したものに他ならない。ゼノンのパラドクスが非現実ならば、映画はそれに劣らず非現実だ。にもかかわらず、現実を描写しているように見えるのは何故だろう。それは、映画が〈運動の描出〉ではなく、〈描出の運動〉を発見したからだね。

これによって明らかになるのは、キツネたちの存在理解が、必ずしも事物の一体性や持続性を要件としていないということだ。むしろ、断片的なものの相互の関係性こそが連続性であり、存在なんだね。映画においては、カットが大きく切り替わっても長い時間が一瞬で経過してもなお連続性を感じ取れる。その隙間を埋めるものを人間は有しているから。

そう、想像力だ。キツネたちの存在理解も映画が立証した想像力の作用によって裏付けられるだろう。

キツネたちの想像力は事物の距離を問わない。キツネたちはベッドに寝ながらにして太陽や星々に触れることができ、同時に至る場所に存在し得る。真冬に夏の海岸へ赴き、昼に十六夜を眺めることができる。遠く、全く無関係の人々に思いを馳せることができる。それはキツネたちが想像力を介して、他者を志向できるからだ。キツネたちによって想像されたものは、世界そのものと親和性を有する。想像されたものは現実ではないけれど、現実の複製物よりも現実に近い。なぜなら、想像の中でこそ、世界との感覚的、情緒的、象徴的な関係は響き合うのだから。つまり、想像力は現前する事物に劣らず世界の構成要素であるということ。


◆まとめ:想像力の実践

以上をまとめると次のようになる。

人間の想像力が人間の存在理解に確固たる基盤を与えているということを、映画は立証してくれた。

ここから、〈現に目の前にあるもの(顕在的なもの)〉だけでなく、〈現にあり得るもの(潜在的なもの)〉を根拠として存在を理解することが可能となる。キツネたちはいま、〈現に目の前にあるもの〉の呪縛から解き放たれたんだ。


取り急ぎ付け加えなければならないのは、想像が無責任であれば存在理解もまた無責任に堕すであろうということ。想像力は、〈まだ顕在化してはいないものの現に潜在している何ものか〉に向けられて欲しい。もちろん、それが何かは人によって、社会によって、時代によって異なるだろう。だからこそ存在は、言葉ひとつに固着できるものとはならないんだね。

キツネにつままれたような顔をしないでおくれ。この場に集った作家さんであれば、これは日々実践していることのはずさ。創作とは、想像力の現実化のひとつの態様に他ならないのだから。そして、その創作物をまさに現実たらしめているのは、そう、作品を受け取る読み手の皆さまだ。映画的存在論、すなわち想像力の実践は、今ここで実現しているんだ。


それでは今日のお喋りはここまで。

また会いに来てね!

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