ボランティアとファシズム

◆ご挨拶

こんにちわ、だいなしキツネです。

今日は、池田浩士『ボランティアとファシズム』を紹介するよ。

キツネはこう見えても社会福祉士なので、ボランティアさんと接する機会が少なくないんだ。善意で人助けをしてくれるボランティアさんにはいつもアタマが上がらないよ。

一方で、社会福祉の歴史を勉強する際には、それが軍事国家における国民総動員政策と歩調を合わせるものだったということを忘れてはならない。戦前の日本は現代の社会福祉政策の先駆けとなる法律を次々と制定したけれど、それは国民を戦場に連れ出すための基盤となる体力や健康を確保しようという意図と切り離せないものだった。

池田浩士『ボランティアとファシズム』は、市民における自発性と社会貢献の意欲を国家がどのように制度化し、吸収、利用してきたかを抉り出す。


◆ボランティアとは?

そもそもボランティアとは何か。人間は社会的動物であり、隣人の役に立ちたいという欲求を抱えている。これがボランティア精神と呼ばれるものであり、これに基づく活動をボランティア活動、その従事者をボランティアと呼ぶ。

2016年の時点で、日本国内におけるすべてのボランティア活動の年間活動時間の総計は20億8168万5700時間になる。もしこれがなければ、この労働力を別の方法で調達しない限り、キツネたちの社会は維持できないということだ。


◆ファシズムとは?

ファシズムとは、危機の時代からの脱却、危機的状況の解消を目的とした全社会的、全国民的な運動の一形態をあらわす概念だよ。

ボランティアは、危機の時代にこそ活躍する。それはとりもなおさず、国家によってボランティアがファシズムの運動内部に取り込まれる危険を示唆している。この両者の連結は必然ではない。だからこそキツネたちは、ファシズムのようなイデオロギーに抵抗する意識を持たなければならない。


◆戦前日本のボランティアの歴史

日本の「ボランティア元年」とは、阪神・淡路大震災の影響で市民運動が活発化した1995年を指す言葉だ。その72年前の1923年には関東大震災が起こった。ここでも市民間の震災救護活動は見られた。帝国大学を中心とした学生救護団が組織され、後のセツルメントへと繋がっていった。セツルメントとは、ボランティア精神をもつ支援者が要支援者の住まう地域に入植して、共に支えあう活動のことだよ。社会の底辺から社会全体を変えていこうというもので、戦前の社会福祉を考える上では見落とすことのできない運動だね。

もっとも、関東大震災から間もない時期には天皇から臣民に向けて「国民精神作興二関スル詔書」が渙発された。これは、近代化に伴う人民の物質的欲求の高まりや民主主義的風潮が現行の支配体制の転覆に繋がらないよう、教育勅語や戊申詔書の理念(忠実、勤勉、倹約)を思い起こさせようというものだ。そこでは国家の興隆と民族の安寧および繁栄、社会福祉への貢献が国民の義務とされる。大正デモクラシーから昭和ファシズムへの転回は、この詔書によって準備されていたと考えられる。

転機となったのは、1928年3月15日、共産主義者が一斉検挙された事件だ。文部省や特別高等警察はセツルメント全体にも共産主義思想の持ち主ではないかとの嫌疑を向けた。

こうして社会運動は弾圧され、転向の時代を迎える。共産主義者の多くは国家主義の陣営へと転向した。これは国家権力にすり寄ったというよりは、彼らがより民衆に近い場所で活動を始めたということでもあった。結果的に彼ら転向者が大戦期の庶民の思想を下支えし、「兵隊さんは命がけ、私たちは襷がけ」などという全体主義的な風潮を生むこととなる。

自発性というボランティア精神の根幹は、国家の海外進出政策に利用された。有名なのは、満蒙開拓団だ。これは満蒙地域の支配権を確立したいと考えた国家が、現地への入植者を募った政策だね。自発性が制度に取り込まれた瞬間だ。移民団は現地で大変な苦労を背負うこととなる。この辺りの事情について、キツネは戯曲を書いたことがあるよ。戦時下から終戦直後の困難は想像するに余りある。

大戦下では、国がボランティア活動を主導することになる。セツルメントは強制解散され、学生は勤労奉仕を義務づけられた。国民の自発性は国家の体制へと総動員された。学校報国隊、隣組、大陸の花嫁、特攻隊、愛路村。様々な国策の舞台でボランティアが活躍する時代が訪れた。


◆現代との共振

戦時下にあって、国家の戦争政策に対して国民の多くが協力的であったことは否めない。その点は民衆の戦争責任として検討してみたいところではある。これまで戦争指導者の罪は告発されてきたが、民衆の責任は希釈されてきたきらいがある。もっとも、これを考える上で重要なのは、過去の日本国民を断罪することではなく、現在の自分であったらどのように行動できるかをシミュレーションすることだ。大切なひとを守ろうというときに、歴史的には悪とされる行為に身を置かなければならない可能性はある。そうした極限状況から身を引き剥がすとすれば、それはどのようなあり方だろうか……?


池田浩士は、ボランティアとファシズムが常につがいとなる概念だとは捉えていない。むしろ、ファシズムに抗って行為することが人間にはできるはずであり、それを成すためにも、この両者の関係について深く検討しておく必要があると警鐘を鳴らすんだ。

現代もまた危機の時代だ。今も国によってボランティアは奨励されている。国家が求めるのは忠実、勤勉、倹約的な国民であって、これと相性のいいボランティアは、いつでも国家が期待するものだ。そして、危機が大きくなるほど国家の権威は増し、ボランティアの必要性も増す。しかし、ボランティアが市民社会の自発性に根拠を持つものだとすれば、それは国家の枠組みから逸脱してもよいはずだろう。市民的不服従の機会は常に確保されなければならない。国策に加担しないボランティアの可能性を模索すべきときは、まさに今、この時代なんだ。


◇参考文献

池田浩士『ボランティアとファシズム』(人文書院)

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