生のデザイン

こんにちわ、だいなしキツネです。


◆現実の生

現実に生死の問題を考えるのは困難だけど大切だよね。キツネたちはいつ死ぬかわからない動物だ。でも、そもそもいつの間にか生きていた動物でもある。「さぁ、始めるぞっ」と思って生き始めたわけではない分、そもそも生きることの意義をどう捉えればいいのかは問題となる。


キツネは以前、「生きることの意義って何ですか」と質問されて、「決まってない」と答えたことがある。続けて「その答えは逃げだ」と言われたので、「他人に答えを求めるのは逃げだ」とも伝えた。自分にとって生が何を意味するのかは自分で考えなければいけないと思うよ。


乙一は、「死とは関係性を喪失すること」と言っていた。逆にいうと、生はあらゆる他者との関係性の内部にあるということだろうか。

ハイデガーは、「生とは住むこと」だと論じていた。住むとは、死すべき者が存在するその仕方である、と。

一方、鴨長明は人と住居の無常を説いた。

バーバラ・スタフォードは、「死とは無機物との親しさを回復すること」という詩を紹介していた。

森博嗣は、「生は点滅している」と表現した。


キツネは、生とは〈立ち去る〉ことだと思っている。キツネたち生物の身体は、数ヶ月でその構成要素のほとんどを入れ替えるという。身体とは、ただ生きている存在ではなく、生と死の入れ替えを常に体験する場なんだね。生を〈物質のヤドリギ〉と呼んでもいいかもしれない。立ち去ることを前提とした表現だよ。たぶん、物質はこのひとときだけ夢を見ている。それが生。


◆永劫回帰と生のデザイン

ただ、立ち去るといっても、これが完全に帰ってこないことを意味するとは限らない。

ニーチェは『ツァラトゥストラはかく語りき』において永劫回帰の思想を説いた。仮に宇宙の時間が無限に続き、原子が無限に結合と離反を繰り返すのであれば、いずれは現在と全く同じ状態が再現される。この一回限りの生は、何度でも、ただ一回限りのものとして繰り返されていく。この一回は永劫に回帰する。まぁ、宇宙がいずれ熱死するのであれば永劫回帰もないだろうけれど、熱死の先に新たなビッグバンが生じ得るのであれば同じ想定は可能だろう。

再来の自覚がない、単なる一回限りの生を繰り返したところで虚無だと思うだろうか。キツネはそう感じないよ。仮にただ一回限りの生であっても、掛け替えのないきみにまた会えるかもしれないんだ。残念ながらその内容は一回限りの決断によって無限に繰り返されてしまうものだけど、だからこそ、いまこの一回の決断が、無限回の重みを持つことになる。永劫回帰の思想は、「既に決まってしまっているよ」という諦念に基づくものではない。無限回繰り返すものをいままさに始められるよ、という宣言だ。生は、自分でデザインできる。

キツネはみんなと出会いたい。何度でも。それはつまり、この一回限りの邂逅を、大切なものにして生きたいということだ。

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