生も死もそれぞれ様々なとらえ方があるのだなぁと読みながら考えておりました。
死については自分の身近な存在がいなくなった時に『この人が死んだと同時に世界がテレビを消すみたいに終わってくれたらいいのになぁ』と周囲の人間に迷惑極まりない事を考えていたことをふっと思い出しました。
もちろん今はそんな事もなく美味しくご飯を食べ、楽しく皆さんのお話を読んで生きております。
このまま一回限定のとはの生を堪能していこうと思っております。
その一回にだいなしキツネさんに会えたことを追加できたことにも感謝ですね~。
(*´ω`*)
作者からの返信
身近にいる大切な存在って、自然に、世界全体と結びついていますよね。生命にとって直に与えられているのは〈現在〉しかありませんが、その現在は人格が経験してきた過去の記憶が持続したものです。だから、深い関わりがある大切な存在との記憶こそが、その人の世界を基礎づけているのだと思います。
一方で、〈現在〉とは、常に、自分が将来どういう存在であり得るのかという気遣いとともにあります。いずれ必ず終わりがやってくるからこそ、人間は掛け替えのない固有の存在なのであって、この自分に与えられた固有性をどういうふうに世界に向かって投げ出していくのかということが、個々人に問われているわけです。
その点、とはさんはコミカルで軽快な作品を書かれたり、複雑な綾と陰影に富む作品を書かれたりすることで、キツネのような、とは文学の読者の生をも彩り豊かなものにしてくれています。作者として、読者として、世界と関わり合いになれることは幸福ですよね。キツネもとはさんに感謝です♪
こんにちは。
読み進めるたび、文字通り宇宙のような知識量に溺れ幸せな気分です……。
引き続き楽しんでおります。
小さい時から「いつか死ぬのになぜ生きるのか」という問いが私の中にありました。
きっと他の人も同じなのだろうけれど。
だいなしキツネさんの文で、多角的で深い視点から語られる、生の意義。
凄いな、と思いまして、同時に私だからこその答えも、まだ探し続けてみようかな、なんて感慨に浸りました。
この辺きっと今後も読み返します。
作者からの返信
こんにちわ! ご丁寧にありがとうございます。少しでも緑川さんの思索のお役に立てたのであれば光栄です。
死と生についての問いは深く、広く、答えは遠く、容易に手が届かないものかと思います。だからこそ、それぞれの視角からこの問いに接近し、それぞれの答えを見出すことが理想ではないかと思います。創作は、その答えを持ち寄って見せ合う場でもありますよね。
緑川さんの作品には生が荒々しく脈動する様子が描かれています。そこからどういった意味を受け取れるのか、わたしは読者の一人として楽しみにしています。
生にも、死にも、何の色もつけられないでいるよ。生には三度出会ったけれど、死にはまだ立ち会ったことがないからかな。
思春期には悩んだような気がするけれど、ただの甘えだったんじゃないかとも思うし。
わたし達はこの生を愛しく感じるね。それはどこから来てるのかな。
この身体はわたしという生態系で、たくさんの命が謳歌している苗床。例えばそれが宇宙なら、この宇宙には感情がある。そんな想像も楽しい。
作者からの返信
素敵な考え方ですね。思考や知覚、感情が情報の交換によって成り立っているのなら、それぞれのマクロな生態系で独自の感情が生じていてもおかしくはないですよね。ガイア仮説などもありますし。宇宙とか波動とかいった次元でも、感情的な交流はあるのかもしれません。逆に、わたしという生態系の内部にも、たくさんの感情が育まれているのかもしれませんね。何事も想像するのはタダ。
宇宙のお話は、以前(たぶん)それをテーマにカクヨムで長編書いていた方がいましたね。読んだ当時はファンタジーみたいだなと思ってましたけど、カラパイアかどこかで見た理論で、SF的な思考だったんだなぁと思った記憶が。(退会された方の作品なので今はないですが、夕餉さんの感想見てみたかったかも)
自分の生にどの時点で意味を付すか、あるいは付さないかは、世情や将来設計や宗教含めた思想によって様々ですよねぇ。だいぶ前ですが愛犬を悲しい事件で亡くした時に、すごく考えて自分なりに結論出したことを、今でも覚えてます。
死に面して生を考える、っていうのはよくあることなのかもですね。
作者からの返信
わたしも愛犬の死を受けとめて今に至ります。LINEのアイコンは今でも愛犬だし、何かと愛犬に引きつけて物事を捉える癖があります。そういう意味では、一緒に生きてるんだなぁと思ったり。
ほんとに、生の意味づけは社会的諸条件によって様々ですね。そうしたものから自由になれるとは思いませんが、立ち向かって考えることはしたいなと常々思っております。
はとりさんの作品も、いつも「生きること」への眼差しが爛々と輝いていると感じています。人との間柄を大切に描かれているため、そう感じるのかもしれません。
『ツァラトゥストラはかく語りき』……読んだのは、たしか小学生の頃で、久しぶりに思い出しました。当時、分かる訳もなく、ただ分かったような、まるで大人のハイヒールを履いた少女…そんな感じだった気がいたします。
「生きることの意義って何ですか」なんと思いテーマでしょうか。人生の中で、失い、そして出会う旅に、自分はかりそめの旅人なのだと感じ、一期一会の深さを思い知らされる…。
そんな命数法の中を分からぬままに、エッシャーの階段をあてどなく歩き、天動説の海原の端から流れ落ちる……。そんな人生を繰り返しているのかもしれません。
それでも、こうして、すばらしい出会いがあることを、思い出させてくださった、だいなしキツネさまに感謝しています。
作者からの返信
小学生でニーチェ!
お洒落な女子ですね〜☆彡
相ヶ瀬さんの素敵な文章に触れることのできたキツネの方こそ感謝です。
あてどなく歩かなければエッシャーの階段が無限循環することに気づくこともできず、オケアノスの向こう側に転落することもできませんでした。失敗こそが掛け替えのない、自分だけの達成であると気づけるのは、挑戦した者の特権ですね。そうした途方もない試行錯誤の時間の果てに、素晴らしい出会いがあるのだとすれば……。〈意義〉は後からついてくるようですね。