8.5話 ひとりの竜




 竜には親がいない。竜が孵る卵を産んだ妖精はいるがその卵を妖精が育てることはないからだ。誰に見守れることもなくこの世界に生まれる竜は親を必要としない強靭な肉体を持って生まれ、生まれたその瞬間から自由に動き回ることができる。

 そしてある程度の知識も生まれ持っている。己の名と、それぞれの妖精の特徴と、番の存在。それは竜の血に受け継がれている情報なのだろう。ティタニアスもこの世に生を受けた瞬間、それらを知っていた。



(番を探さなければ……近くにいるはずだ)



 竜が生まれた時、必ずその番も生まれるものだ。竜と対になる魂を持った片割れ。世界で唯一、竜という存在に怯えることのない命。

 産まれたばかりのティタニアスの体は人型の妖精の特徴を有していた。これは竜が持つ二種類の体のうち番に近い姿である。もうしばらくすれば成熟の証である羽が生え、竜の姿も取れるようになるだろう。自分の体を触って特徴を確かめる。それが番を探す唯一の手掛かりだからだ。



(耳が尖っている以外に特徴らしい特徴がない。……木か風の妖精だろうか)



 ティタニアスの卵が放置されていた場所は巨木の根本に空いた大きな洞の中だ。そこから這い出して外の世界を初めて見た。巨木が立ち並ぶ妖精の森。木の妖精が多く生き、風の妖精がよく家を作るような場所だ。きっと番はすぐ見つかると、その期待を胸に世界を踏みしめた。



 しかし。番はなかなか見つからなかった。一日、二日で見つからないくらいなら当然だ。けれど一年、二年と経つと話は変わってくる。

 竜と番は近い場所に生れ落ちるのが世界の法則。他の妖精におそれられ、逃げられ、何一つ話を聞けなかったとしても地道に妖精の住処を探していけば見つかるはずなのだ。それなのにティタニアスの番は森の中をいくら探しても見つからなかった。



(何故だ……? 何故、見つからない?)



 目が合った小さな花の妖精が怯えた顔で失神し、遠目に見えただけで吹き抜ける突風のごとく去っていく風の妖精の背を見送り、暴風が過ぎ去るのを待つかの如く固く瞼を閉ざし震える木の妖精の横を通り過ぎ、滴るのが水滴か涙か判断できない泉の妖精に背を向けたその日はティタニアスが生まれて丁度十年になる日だった。

 番が生まれているなら同じ年齢だ。すでに成熟し自由に飛び回っているだろう。ティタニアスの背中にも立派な竜の羽が生えている。飛べるようになって歩き回るよりも数段捜索しやすくなった。けれど、それでもまだ見つからない。



(まさか、もうこの世に……いや、そんなはずはない。必ずどこかにいる)



 竜の番は生命力が強いものだ。力の強い瞳を見ても怯えないほど生命力にあふれた存在で、そう簡単に死ぬものではない。必ずどこかで生きている。……そう信じなければ、孤独に耐えられそうになかった。

 妖精世界を治める女王なら何か知っているかもしれない。彼女の耳には妖精の噂話が全て届くのだ。ティタニアスの番についての噂も聞いている可能性が高い。幸い、女王の住処は同じ森の中にある。


 思い立ったその日、さっそく女王の元へ赴くことにした。女王は誰の謁見も拒みはしない。毎日様々な妖精が彼女のもとを訪れ、彼女の周りは常に明るい声に満ちている。

 巨大な植物が複雑に絡み合って作られた城の大広間。枯れることのない花が咲き、常に甘い果実が実り、妖精の笑い声や歌声が響く。そんな妖精女王の謁見の間へティタニアスはやってきた。



「竜が来た!!」


「逃げて!! 竜が来た!!」



 妖精たちで賑わっていた謁見の間はティタニアスが一歩踏み込んだだけで騒然となり、数秒後には女王以外の妖精の姿がなくなってしまう。この反応は見慣れたものだが、心が慣れる訳ではない。恐れられ嫌われることに何も感じない心を持っていたならばどれほど楽だっただろうか。



「竜は場の空気を壊すから好かん。皆逃げてしまったではないか」



 広間の高台に作られた玉座に女王は座している。冷たい声が静かな空間に響き、ティタニアスの耳に届いた。輝く白い髪は地に着くほど長いが傷みなど見えない。他の妖精が丹念に手入れをするのだろう。

 妖精はみな彼女にかしずく。彼女と対等なのは唯一、彼女の伴侶たる王だけ。そして――竜はどちらでもない。



「……それについては、申し訳なく思う。ただ、どうしても女王に尋ねたいことがあった」



 竜を恐れず、逃げない妖精。それは番のみであり、女王も例外ではない。固く閉じられ隠された目はティタニアスの存在を拒絶している。目が合えば女王ですら竜の存在に恐怖を覚えてしまうから、決して目が合わぬようにそうしているのだろう。……ただ、会話になるだけ他の妖精よりはマシだ。



「もう十年も番を探しているのに見つからない。女王は番の行き先をご存知ないだろうか」


「……見つけられるものなら見つけてみよ。吾はそなたが嫌いなのでな、答えてやるつもりはない。そして同じ質問は二度と聞かぬ、さっさと立ち去るがよい」



 その言葉で女王が番の所在を知っていること、そしてティタニアスの番が見つからないように何かしらの手をまわしていることが分かってしまった。

 おそらく、番は女王の手によってどこか遠くへ隠されてしまったのだろう。もう近くにはいないのだ。向けられた敵意に足取りを重くしながら女王の元を去った。背後ではまた妖精たちが集まる気配がする。その輪の中にティタニアスが入ることは、入れることは決してない。



(けれどあの言いよう……よかった。番はどこかで生きている)



 今のティタニアスならどこへだって飛んでいくことができる、世界のどこかに居るならば探すことができる。生きているかも分からず不安だったところに、ほんの少しの希望ができた。女王へ会いに行った価値はあったと、そう思うことにした。



(……俺の番はどんな妖精だろうか)



 竜と番は共に過ごせば自然と親しくなれるものだと生まれ持った知識の中にある。ティタニアスの知っている妖精はこの目に怯える存在だ。目が合えば気絶され、目が合わぬように逃げるものばかりで近づいてくるものなどいない。まともに会話をしたのも女王が初めてだった。

 けれど番が相手ならばティタニアスであっても他の者達と同じようにその妖精と関われるはずである。視線や言葉を交わし、笑い合うことができる、そんな関係を築けるはずだ。……そんな夢を繰り返し見る。自分にも言葉を交わせる親しい存在ができる夢を。そして目を覚ます度に現実を突きつけられるのだ。



(番に出会えたら……本当に大事にしよう。怖がられないように、傷つけないように)



 番は竜の瞳に怯えない存在だが絶対に好かれる訳でもない。お互いの存在を心地よく感じるところまでは本能だが、育った環境や性格によっては“合わない”ことも考えられる。

 竜には番しかいないが番にとってはそうでもないのだ。他との繋がりを作れる番に対し独占欲を発揮して嫌われてしまうことも過去にはあった。そういった事情から番と酷い仲違いをし、どうにか縁を結び直しても程よい距離感の友のまま生涯を終えた竜もいるらしい。そんな噂を誰かがしていた。



「番に嫌われちゃった竜はかわいそう。ずっと独りぼっち」


「でも自由を愛する火の妖精を閉じ込めたのが悪い。嫌われて当然」



 妖精たちの噂話は聴覚の鋭いティタニアスの耳に入ってくる。時折聞こえる過去の竜の話から、自分が番に対してどのように接するべきかをずっと考えていた。どうすれば嫌われないのか。……どうすれば、好きになってもらえるのか。自分だけが求める関係ではいけない。

 しかし番を探す日々を送っているうちに自然と番への想いが強まっていく。これは憧れだろうか、それとも執着だろうか。会いたくて、会いたくて、けれど見つからなくて。二十年以上の月日を要し、妖精の世界を隅々まで探し終え、ふと思いついた。



(まさか、人間界か……?)



 極稀に、様々な理由を持って人間の子と己の子を入れ替える妖精が存在する。あの女王ならやりかねない。あの性悪め、と内心で悪態を吐きながらティタニアスは人間界へと飛び出した。

 そうしてまた一年ほどの時を経て、月の明るいその夜にようやく見つけたのだ。探し求めてやまなかった魂の片割れ、竜の番――オフィリアを。



(ようやくだ、ようやく見つけた。やっと……会えた)



 その時の高揚感は言葉で言い表せないものだった。月明かりできらめく髪を持つ小さな妖精がただ真っ直ぐ自分の姿を見つめているという光景が信じられず、どこか現実味がない。

 彼女の温かみのある緑の瞳には虹が閉じ込められたように輝いていて、ティタニアスが今まで見てきたどんなものよりも美しく感じた。オフィリアはそんな瞳でじっとティタニアスの目を見つめてくれる。逸らされることも、怯えられることもなく。その瞳に己の姿を映されることがどれほどの喜びであったか。



(なんて美しい妖精だろう。彼女自身が生きた宝石のようだ)



 一目で心を奪われる。出会う前からずっとティタニアスの心は番に向けられていたが、それがこの瞬間に定まったとでもいうべきだろうか。自分が求めていた相手はこの妖精だと、自分が欲しいのはこの妖精だと心の声が囁いてくるような。ただ漠然と“欲しい”という強い欲求が沸き上がった。



(しかしこんなに小さいとは……人間の世界で暮らすせいだろう。女王は非道だ)



 オフィリアの背丈はティタニアスの胸の高さに届かず、顔立ちにもまだ幼さが残っている。羽もまだ生えていないようだ。妖精は自然の溢れる場所に生まれ、その力を受けて育つもの。人間の世界には人工物が多く充分な力を受けられないため、羽も生えていないような妖精がこちらの世界に来ることは殆どないというのに。



(俺がオフィリアを守らなければ)



 小さく可憐で今にも壊れそうな宝石。心も体もティタニアスが守るべき存在。それがオフィリアの第一印象である。しかし儚く見えるのはその姿だけで、彼女は風の妖精らしく悪戯好きな性格であり、そして本能とも呼べるそれを抑え込めるだけの精神力を持つ芯の通った大人だった。


 妖精であるからこそ息苦しさを覚えているはずだ。それでも瞳を輝かせて笑う姿があまりにも眩しい。それが人間界で生きるために必要なことなら仕方がない。けれど、人間界と関係のない自分の傍でだけは思うままに生きてほしい。

 そんな思いから本当の姿を見せてほしいと頼んだのはティタニアスなのだが、それからもう何度もからかわれては心を乱されている。想像していたよりも感情に振り回されそうになって大変だ。

 けれどそれが、そんなやり取りが好ましい。会う度に、言葉や視線を交わす度に、これ以上ないと思っていた好意が強くなる。



(ああ、でもとてもいい気分だ。誰かと会話をするというのはこんなに心地よかったのか。……早く夜が来てほしい)



 オフィリアと出会ってからティタニアスの生活は一変した。妖精同士の楽しそうな話声を聞きながら自分にないものを思って胸が苦しくなることも、番を探すために外へ出て動き回ることで他の妖精を怯えさせて申し訳なく思う必要もない。

 ただ、オフィリアを想いながら時を過ごす。いつか彼女が家を訪れてくれるかもしれないと考えてちゃんとした家づくりも始めた。彼女は風の妖精であるため、植物が多く風通しも日当たりも良いことが絶対条件だ。しかし元からあるそういう場所はすでに風の妖精が家を作っており、ティタニアスが傍に家を作れば彼らは恐ろしさから家を手放すことになってしまう。

 誰も住んでいない場所を選び、少々強引に環境を整えた。……地形を変えるくらいは竜ならば容易いことだ。


 本来竜の住処など集めた宝物を溜めて置ける場所さえあればいいし家にこだわりなどない。そして風の妖精は家の場所にはこだわるものの中は寝て休めればいい、というくらい簡素な家を作る。しかしオフィリアは人間として育てられてきた。彼女の部屋に近い作りがいいはずだと、見様見真似で人間の様式に乗っ取った家具を試行錯誤しながら作っているところなのだが、これがなかなか難しい。



(……オフィリアはどうしているだろう)



 椅子づくりの途中でふと集中力が切れ、その瞬間に思い浮かんだのはやはりオフィリアの顔だ。……彼女以外とまともに関わったことがないのだからそれは当然かもしれないが。

 ぱた、ぱた、と背後で地面を叩く音がする。感情で勝手に動く尾のせいだ。オフィリアに出会うまでこの尾が激しく動くことなどなかったため、まだ自分でもこの尾の感情表現に慣れていない。



(少し休むか。……しかし夜が待ち遠しくて落ち着かないな)



 まだ明るい時間帯なので会いに行くことはできない。竜は恐れられ、怯えられる存在だ。彼女の大事な家族に姿を見せる覚悟はまだない。……もし、オフィリアの家族に「竜などという恐ろしい妖精とは二度と会うな」と反対されてしまったら、などと悪い想像をしてしまうのだ。



(オフィリアに二度と会えなくなったら俺は生きていけそうにないからな……)



 どこにいるか分からない番を探し求めて過ごす日々よりも、今の方がもっと孤独に耐えられないだろう。オフィリアと過ごす時間は本当に心地よいのだ。この幸福を知ってしまったからこそ、その喪失感に耐えられる気がしない。

 だから絶対に傷つけないように、大事にしなければ、ならないのに。



(……触れてみたいと思うのは何故だ。それで傷付けたらどうする)



 嫌われないように、傷つけないように。……恐れられないように。順序を守るべきだ。竜のような強大な存在が強引な手段を取るのは脅迫であり強要である。オフィリアにそんなことをしたくない。

 それなのに時々、どうしようもなく、光の妖精が紡いだ糸のように輝く白金の髪に手を伸ばしてみたくなる。虹を閉じ込めたような瞳をもっと近い距離で覗き込みたくなる。

 たとえばオフィリアが「好き」と口にした時や、婚姻の話を持ち出された時など。自分の存在を望まれているような気がして、ティタニアスも彼女を求めたくなってしまう。……その度にそんなはずはないと自分に言い聞かせる。確かに嫌われてはいないし好意は抱いてくれているだろうがまだ出会ったばかりなのだ。これらは軽口の類であって、彼女にティタニアスほどの強い欲求があるとは思えない。



(この欲求はなんだ。番を求める竜の本能などあったか……?)



 探しても見つからぬ番に焦がれる日々が長すぎて、番を求める気持ちが強くなってしまったのかもしれない。しかしまだ、早いはずだ。本来なら幼い頃からゆっくり育むはずだった絆を、失われた二十年以上の時間を、今から一つずつ紡いでいかなければならないのだから。

 出会った時からティタニアスがオフィリアに抱く感情は変わっていない。同じものが大きくなっていくばかりだ。……これがいつか恋情に変わるのだろう。そしてオフィリアも自分も同じ想いを抱くまで、友として親しくなっていかなければならない。



(まだ早い。……だから触れてはいけない。そうだな、ひとまず十年程は親愛を育むべきだろう)



 オフィリアがからかうように放つ言葉に「まだ早い」と答えるのは自分を戒めるものでもある。ティタニアスの尾が堪えた欲を発散するように強く地面を叩いた。


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