迷子のナエタ

 ある朝、不安な夢から覚めると田中の腹の辺りに1匹の虫がいた。虫は半透明の体から出た多くの脚をわなわなと動かし、首の方へと近づいてくる。田中はできるだけ体を動かさないようにと、首だけを曲げこの虫を観察していた。ドーム状の体はその細い脚では支えきれないように見える。それでもバランスを保とうとして左右に揺れながら田中の首元を目指し進んでいた。時折、虫はハサミのような口をカチカチと動かし、辺りを見回した。そして、また綱渡りをするかのようにゆっくりと歩を進めていた。田中は数秒か数分かわからないがこの虫を観察し続けていた。目が覚めてくると、田中はこの虫の背を丁寧に持ち、布団から出て自分の机に置いた。顔を洗い、朝食を食べ、歯を磨き、着替えた。それから机に置いた虫のことを思い出し虫を一瞥した。そして、田中は出かけて行った。

 必要最低限の家具や物しかない無機質な部屋、その中のさらに狭く小さい机の上には虫以外には何も置かれていない。虫は自分がいる場所がわからないのか辺りを時折見渡しているだけで1歩も動いていなかった。しかし、田中が帰宅した時にはもう机の上を我が物顔で這っていた。田中は帰宅する際に道端でとってきた雑草を虫の前に置いてみた。虫の食事を案じてのことだった。しかし、虫は見向きもせず葉を避けるようにして動き出した。寝る前に田中が虫を見た時もやはり虫はとってきた雑草には目もくれずただ机の上を動いているだけであった。田中は雑草を捨て、布団に入った。

 次の日の朝、いつものように悪夢にうなされ起きると体を起こした弾みで虫が田中の腹から転げ落ち布団の隅に転がった。机の上にいたはずの虫は夜間の間にどういう訳か移動し、田中の腹に引っ付いていたようだ。寝起きでまだ頭にもやがかかっていたが、虫を潰してはいけないということだけははっきりと感じていた。いつものように体を起こすために洗面所に向かい、冷たい水で顔を洗う。そして、日課であるシャワーを浴びようと服を脱いだ。定期的に悪夢を見る田中にとって、起きた際に服が汗で重くなっていることにはいつものことだった。しかし、この日はいつもと違い肌着の腹の部分に小さな穴が空いていることに気づいた。そのあたりは昨日今日と虫がいた場所のように田中は感じた。この服は既にたくさんのほつれや、黄ばみが見られ、誰が見ても長年着られてきたことがすぐに分かるものとなっていたため、田中はその穴について深く考えることなく、いつも通り洗濯機に服を放り込んだ。そして、朝の冷えた体を温めるために浴室へと入っていった。田中は普段考えるということを面倒だと避けている。しかし、シャワーを浴びている時間だけはなぜかとりとめのないことを考えてしまうのであった。そしてふと思う、自分は虫なのだ、と。生活に余裕はなく毎日同じ生活を繰り返し、家と仕事場を行き来するだけ。家と仕事場と通勤経路、たまに行く近くのコンビニやスーパー、この限られた空間だけで生きている。机だけを行き来し、雑草を食べようとしない虫と何ら変わりがないのだ。シャワーを浴びながらでも田中には暗い笑い声が浴室に響くのを感じた。浴室から出て服を着ると、昨日と変わらない朝食を食べ歯を磨いた。それから、また虫のことを思い出すと床の転がっていた虫を昨日と同じように机の上に置いた。そして虫を一瞥し、田中は出かけて行った。なぜか虫を放とうとは思えなかった。虫は昨日と同じように机の上をのそのそと、しかし我が物顔で歩いていた。

 帰ってきた田中はすぐさま浴室で体を洗い外での疲れを洗い流そうとした。体を洗いすっきりした気分をなんとか感じると、仕事のことや自分のことについて考えてしまう浴室から出て服を着る。そして、夕食としてご飯と味噌汁を食べた。ふと、机の隅で動き続けている虫に目を向けた。虫については普段しようと思えない考え事をしてしまっていた。それは、「この狭い机の上が虫の歩き回れる自由な場所なのだろう」とか「虫はその重たい身体をひたすら動かして生を終えるのだろう」という考えだった。田中は自分と一緒かそれ以上に惨めな虫を見ることでどこか満足した気持ちを感じていたのだ。その日はいつもより疲れていたこともあって久しぶりによく眠れそうな気がした。

 しかし、田中が起きたのは痛みからであった。腹部が熱く痛み、それでいて首元はどこか冷ついている。首を曲げ腹部を見ると虫が貼り付いていた。暗い部屋の中、体の感覚だけが嫌にはっきり感じられる。目を凝らしてみると腹部に貼り付いている虫はそのカチカチ鳴らしていた口を田中の腹部にさし、田中を食べようとしているようだった。田中はもう痛みは感じていなかった。背中に流れる汗を感じながら虫を腹から剥ぎ取り床に落とすと踏みつけた。何度も踏む必要はなかった。それは1度踏んだだけであの半透明の体に蓄えていた白濁した液を外気にさらしていた。足でその粘り気のある体液を感じながらいつからか激しくなっていた息を感じながら立ち尽くしていた。立ち尽くした田中の中にあったのは思考などではなく、高揚感だけであった。ただただ、自分の中の満足感や達成感を味わっていた。息が落ち着いたとき、自分が笑っていることに気づいた。暗い笑顔とはまた違う笑顔だった。そして、途端に自分のことを気持ち悪く思った。のそのそと浴室に向かい、シャワーを浴びた。浴室から出ても普段のようにすっきりした気分にはなれなかった。むしろ、田中は自分を不気味に感じていた。田中は傷の手当をしようとしたが腹部の傷はよく見ると大したことはなかった。寝室に戻り虫の死骸を片付ける。その日、田中は初めて仕事を休んだ。

 初めて休んだとて、田中にすることはなかった。休むことのあまりの久しさにそれが自分にある権利とは思えなかったのだ。ただ田中は、部屋を片付けながら無意味に狭い家を歩き回り、疲れると埃のかぶったソファに腰を下ろした。ただ虚空を見つめながら無意味な考え事をする。その多くは虫についてだった。田中は虫を殺したことなど覚えている限りなかった。この歳になって初めて自分の手で虫を殺したのだ、と田中は思った。下着の穴は虫が開けたのだろうかと思った。そして、虫を殺した後の自分を支配した高揚感、それに酔った自分を恐ろしく思った。時折、虫を踏みつけた床を見つめ、また虚空を見つめる。そうして午前中を過ごした。

 正午ごろ、インターホンが鳴った。田中が応答すると聞こえてきたのは会社の上司の声であった。

「どうして休んだ。風邪か。お前が風邪なんて引くものか。数ヶ月前だってあんなに咳をしながらも仕事をしていたではないか。これは職務怠慢だ。例え体調が悪くとも午前中休んでいたんだ。もういいはずだ。今すぐ出社しろ。今日は寝れると思うな。午前中にするはずだった仕事を終えるまでは退社出来ると思うな」

 普段通りの上司の言葉が今日はやけに理不尽に聞こえた。今まで感じたことの無い感覚であった。自分の抱く反感に興奮を覚えた。その興奮は昨夜の興奮に似ていた。ずっと感じていた気持ち悪さはもう消えていた。自分は立ち向かえるのだ、この理不尽に。

「そんな理不尽な事がありますか。今日は休ませてください。そうしたら、明日はいつも以上に働きます。それに、今まで1日も休まず働いてきました。今日1日の休養ぐらい認められるべきだと思います」

「お前の働き様などどうでもいいのだ。お前一人がいようがいまいが会社になんら影響などないのだ。ただお前が毎日出勤すること、それだけが大事なのだ」

 田中の興奮は止まず、むしろ体は熱くなっていく。自分はあの惨めな虫と違い、理不尽に立ち向かえるのだ、空を飛ぶことのできるのだ。

「それなら尚更、今日1日休ませてくれたっていいはずです。今まであなたに従ってきた。しかし、私だって目があり耳があり口があり頭があるのです。見て聞いてものを考え発言できます。この理不尽に対抗できるはずです」

 言ってやった。今、初めて自分は外に飛べたのだ。

「そうか、ならずっと休んでおけ。お前程度の虫が歯向かおうと何の意味もないのだ。無意味なのだ。1人浮かれているだけで何も見えていない。そんな輩は踏み潰されてしまうのだ」

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迷子のナエタ @dasaku

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