エピローグ
アラームの音ではなく自然に目覚めた朝。俺は枕の横に転がっている『杉本の分身』に、おはようのキスをした…わけではなく、手で転がしてベッドから落とした。
こんなことしてたよな、と、ぷっと笑いながら起き上がり、床から柴犬のぬいぐるみを拾ってベッドに戻す。
部屋から出たところで部屋着姿の父さんに会った。
「おはよ」
「ああ、おはよ」
父さんは、1週間の疲れがまだ残っているのか寝たりなさそうな顔をして、背中を丸めてトイレに入って行った。
俺は洗面所に行き顔を洗って、エアコンの効いたダイニングへ入って行く。
「おはよー麻也。朝ごはんにする?」
母さんがダイニングテーブルの上に新聞を広げたまま、夕方5時のテンションで振り返った。
もう何度も繰り返してきた、休日の朝の、家族の風景。
朝ごはんのあと、洗い物を買ってでた俺はさっさとキッチンを片付けるとまな板と包丁をセットした。
そして冷蔵庫からカレーの材料を取り出し、せっせと野菜の皮をむき始める。
「あらっ。暫く見ない間に上達したわね」
母さんが横からちゃちゃを入れてきた。そりゃまあね。毎日、自炊、してましたから。
「今日、お昼は杉本くんちで食べるのよね?お夕飯はどうする?うちで一緒に食べる?」
母さんには詳しい事情は話さずに、杉本が訳あって一人暮らししているということだけ伝えてある。俺と付き合ってるということで色んな想像は巡らせてはいるだろうが(なんせ経験者)、特に向こうからは何も訊いてこない。でも付き合っていることを知られているが故に、杉本んちにお泊りしたいなんて微妙なことはとても言えず、今日は夕方には帰ると言ってあった。まあ、昼間でもやることはやれるんだけどね、と考えてちょっと赤くなる。
「どうかな。成り行きしだい。またそのときは連絡する」
俺は曖昧に返事をしながら、意識を野菜をむくことに集中させた。
昨日は相田さんたちと初めて一緒に遊びに出かけた。
俺が、こっちに引っ越してきてからまだどこにも観光に出かけていないと言ったら、みんなで俺のために近場のおすすめスポットを考えてくれた。そして全国的に有名でありながらも学校から電車で15分ほどで行けるという、国宝にも指定されているお城を見学しに行くことになった。
城って…高校生が遊ぶにしては渋くねえか?と思っていたら、城の方はマニア以外の人間にとってはおまけみたいなもんで、メインはお城の隣りに広がる城下町散策だった。
昔ながらの町家造りが建ち並ぶ、まるで江戸時代にタイムスリップしたような雰囲気のメインストリートは、建物の1階部分がほぼおしゃれな食べ物屋や雑貨屋にリノベされていて、絶好の食べ歩きorデートor映えスポットとなっていた。
「あ、見て!可愛いドーナツ屋さん!」
「ねえ、あっち、かき氷あるよ!」
「あ〜浴衣着てくれば良かったな〜」
相田さんと
「あっちぃ〜。夏に来るとこじゃなかったな」
今日は部活が休みだという高橋の呟きに男子一同頷いた。
でも、いつもは学校でしか会わないみんなと、こうして外で私服で会っているというだけで、俺は十分楽しかったし嬉しかった。
帰りは相田さんと2人で一緒の電車に乗って一緒に帰る。
2人並んで座席に腰掛け、今日あった出来事を語り合いながら、相田さんが先に電車から降り、俺はひとつ、先の駅で降りた。
もう嘘をつかなくていい。10割本当だ、と俺はホームで思い切り息を吸い込んだ。
カレーの粗熱を冷ましている間、自分の部屋で夏休みの課題と格闘していたら、ドア越しにでもわかるくらい香ばしい匂いが部屋の外から漂ってきた。
俺はその匂いに誘われるままキッチンへと出て行く。
「唐揚げ、また作ってんの?」
ジュワッと油に菜箸を突っ込んでいる母さんに声をかけると、「うわっ、びっくりした」跳ねるみたいに驚かれた。おい、息子の存在、忘れんなよ。
「だって杉本くん、すごく気に入ってくれたみたいだから。これもちゃんと持ってってよ」と母さんは既に揚げ終わっている分の唐揚げをテキパキとタッパーに詰めると、はい、と俺に渡して寄こす。
気に入ったのは母さんの方でしょ、と苦笑しながら、もう冷めたかな…と揚げ物鍋の横にあるカレーが入った鍋をこわごわと触ってみた。うん、大丈夫。
俺はキッチンの引き出しから大きめのバンダナを取り出すと、上に鍋を載せて、蓋が開かないようにくるんで上でぎゅっと縛ると時計を見た。
もうすぐ11時か…もう起きたかな。
「そろそろ行って来る」
「ご飯、うちで食べるなら早めに連絡してよ」
「わかってる」
俺は一度部屋に戻るとリュックを背負い、唐揚げのタッパーを小脇に挟んでカレー入りの鍋を両手でしっかり持った。
「行ってきまーす」
家を出るとエレベーターで1階まで降り、駐輪場へ向かった。途中で渚ちゃんを抱っこしたお隣さんに出会って「こんにちは〜」と挨拶を交わす。
駐輪場に停めてある赤いママチャリの、前かごにそおっと鍋を入れた。良かった。なんとか水平のまま入れることが出来た。小さめの鍋にしといて正解だった。唐揚げのタッパーは雑に斜めに突っ込んで、かごの中身をあまり揺らさないように静かにストッパーを上げると、自転車にまたがってぐんと脚に力を入れた。
夏の陽射しが肌に痛い。自転車を漕いでいると汗がどんどん吹き出てくる。
下りに入った。俺はブレーキから手を離して一気に坂を滑り下りる。顔に当たる風が気持ちいい。
今日は学校も休みだから杉本まだ寝てるかな…いいや、起こしちゃえ。だって早く顔が見たいし声が聞きたいし、肌に触れたい。
杉本の住む家に到着し、隅に自転車を停めていると、まるで待ってたみたいに目の前の引き戸がガラッと開いた。いや、実際待ってた?そこには相変わらず派手な部屋着の杉本が笑いながら立っている。
「ういっす〜」
「ういっす、起きてたんだ」
「当たり前だろ。今、何時だと思ってんだよ」
「いや寝れるときはいつまでも寝るでしょ、アナタ」
俺はさっきと同じように、唐揚げのタッパーを小脇に挟んで鍋を両手で持ち上げた。
「あっ!それは?!」
杉本が目ざとく半透明のタッパーの中身を察知して、「上條母ちゃんの唐揚げ?!」と俺の脇からタッパーを勢いよく引き抜いた。おかげで一瞬バランスが崩れて、鍋を落っことしそうになる。おい…俺のカレーにもちょっとは反応しろ。
タッパーを大事そうに抱えてご機嫌で家に入っていく杉本を見ながら、ちょっとむくれて俺も中に入りつつその背中に向かって訊ねた。
「米、ある?」
ご飯は杉本んちで炊こうと思って持ってこなかった。確かキッチンに炊飯器があった気がしたから。
「あるよ。てか、もう炊いてあるよ」
杉本が奥のダイニングへ向かいながら答えた。
「え?もしかしてななこさんがやってくれた?」
ぎょっとして一瞬申し訳ない気分になったが、「違うよ。俺が自分で炊いたの」と杉本が言うので驚いた。
「え?杉本が?」食えるの?と言ってしまいそうになり慌てて口をつぐむ。
「俺、最近ななこさんに教えてもらいながら、ちょっとずつ家事出来るように練習してんの」
杉本は慣れた手つきで食器棚からカレー皿を2つと大皿を1つ出して、タッパーの中の唐揚げをキッチンに掛かっていた菜箸でテキパキと大皿に移し始めた。
おお、杉本も成長するんだな、とちょっと上から目線でその様子を眺めながら、俺は鍋を包んでいたバンダナを外し、コンロに載せるとつまみを回した。火は1回で勢いよくついた。
「あ、そういえばさ」
唐突な杉本の声に、俺は目の前の壁に掛かっていたお玉を取る手を止めて「ん?」と杉本の方を振り返る。
「俺、病院変わることになってさ、今のとこに紹介状?取りに行かないといけないらしい。でも姉ちゃんが一緒に行ってくれるからいいんだけど、あの病院、上條が探してくれたとこだし、一応報告」
「え?」
びっくりして一瞬お玉を落としそうになった。
「お姉さんに病院のこと話したの?」
「それがさ、姉ちゃんがここに来たとき俺がうっかり薬の袋をテーブルに出しっぱなしにしててさ、バレちゃった」さらりと杉本が言う。
「え?それでなんて?」落ち着いている杉本とは裏腹に、俺が1人ハラハラとしてしまう。弟が心療内科の薬を飲んでるなんて、お姉さんショックだったんじゃ……。
「そしたらさ、姉ちゃん俺の腕を掴んで母屋に引っ張って行ってさ、リビングでくつろいでた親父とあの人の前でバーンって薬の袋叩きつけて、『あんたたちのせいで真咲がこうなったんじゃないの?』って泣きながら怒ってくれてさ、俺泣いちった〜」
ふはっと杉本が吹き出した。いや、笑ってんじゃんか!
「それで病院変えろって?」
「うん、まあ親父がツテで評判いいってとこ探してきたから一応?本当は俺を母屋に戻す話も出たんだけどさ、今更じゃん。そんなん俺だって気まずいだけだしね」
「…なんか、勝手だな」
杉本の家族を悪くは言いたくなかったが、我慢しきれずに俺はそう漏らした。
「まあまあ、いいんだよ。だってこっちに住んでないとこうやって上條と2人っきりになるのも難しくなっちゃうし」
杉本は、俺のすぐ右隣まで歩いて来るとぴとっと肩と肩をくっつけた。そして、俺の目をじっと見つめる。俺はポコポコ沸騰し始めた鍋の火をカチッと止めると、右手を杉本の方に伸ばした。
「あ、そうだ!」
突然何かを思い出したように杉本がくるっと向きを変え、俺の右手は虚しく宙を掴んだ。おい、今チューする流れじゃなかったか?
「昨日、学校帰りにスーパーで買ったの忘れてた」
杉本が冷蔵庫を開けて、中に上半身を全部突っ込むと、何やら取り出した。
「じゃん!」
そこには、右手にレモン。左手に……オレンジ?
「俺と上條」
「ええ?」
レモンはわかる。でもオレンジって…。
ピンと来ていない俺の様子を見て、杉本が、んも〜と眉を寄せると、「あ〜さ〜や」け、と最後の一文字だけは声には出さずに、口の形だけで伝えてみせた。
ああ、と俺は納得する。いつか2人でみた鮮やかな朝焼けのオレンジが目に浮かんだ。
「ダジャレかよ」
俺は、ははっと声を出して笑う。
杉本が、きひひっと笑った。
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