ep.Lemon 前編

 最初から色っぽいヤツだと思っていた。


 去年から変わらない顔ぶれにもかかわらず、担任が変わったせいで自己紹介をするハメになった退屈な始業式後の学活の時間、俺は欠伸をかみ殺しながら左隣に座っているヤツの方をチラリと盗み見た。

 こいつは、新顔だ。

 でもなんか……ヤバいぐらい緊張してんじゃん。息をするたび肩が大きく上下して、手はぎゅっと握り締められ、顔色は悪く、今にも倒れそうだ。

 そんなに緊張しなくても、適当なこと言ってさっさと終わらせてしまえばいいんだよ、と柄にもなく親切心を出して声をかけてしまいそうになる。

 そうやってそいつの様子を盗み見ているうちに、いつの間にか俺は、そいつに見とれていたことに気がついた。

 漆黒で少し癖のある柔らかそうな髪。切れ長の目に長いまつ毛。そして机の下で窮屈そうに折り畳まれたスラリと長い手足。

 色気があるな……。

 男にこんな感想を抱くってどうなんだ?と、初めて味合う感覚を頭の中でなんとか処理しようと脳みそを回した。

 でも、そいつの自己紹介を聞き終わったとき、俺の脳みそはストンと音をたてて納得した。

 ああ、こいつ、男にもモテそうだ。


「杉本!」

 上條の声に俺はハッとして4月の教室から、7月の俺んちのキッチンに一気に引き戻された。

 隣では泡まみれになったカレー皿を俺の方へ差し出す上條が、「何、ぼ〜っとしてんだよ」と怪訝そうに俺を見下ろしている。

 そうだ。俺と上條はさっきから、スポンジで汚れを落とす係と、泡を洗い流す係とで分業しながら洗い物をしていたんだった。

 なんかこんな風に2人で過ごしていることが急に不思議に思えてきて、思わず初めて上條に会ったときのことを思い出してしまった。

 ああ、でも俺……やっぱりあのとき既に上條のこと好きになってたのかもな。自覚なかったけど。だからこそ、上條も一人暮らししてるって知って初めて家に泊めてもらった次の日、友だちに部屋を貸す予定があるからって嘘ついてまた押しかけてしまったのかも。だって一緒に寝たかったんだよ。迷惑だってわかっていながらさ。

 そんなことを考えながら、俺がカレー皿の泡を綺麗に洗い流していると、「そういえばさ」上條が唐揚げを載せていた大皿を洗いながら世間話でもするみたいに話し始めた。

「おまえ、好きなやつとしかセックスしないって言ってたけど、あれ、嘘だよな?」

 いきなり心外なことを言われて俺はぎょっとした。そして、いきり立って大声を出す。

「はあっ?!嘘じゃねえし!ていうか、なんで急にそんなこと言うんだよ!」

 上條は一瞬、うるせっ、と顔をしかめると、「だって俺んちに2回目に泊まりに来たとき、俺とヤろうとしたじゃん。あんとき別に俺のこと好きじゃなかったろ」と冷静に、はい、と泡まみれの大皿を渡してきた。

 あれ?なんか以心伝心?俺も今あのときのこと考えてたんだよ。でもホントだ。俺、あんとき、無自覚に上條とヤろうとしたけど、でも本当に好きな人としかしたくないんだよ。てことは……やっぱり俺、あのときもう上條のこと好きだったんじゃん?と、上條に想いの丈を打ち明けようとしたとき、「でもまあ、いいよ」と上條は手を洗ってシンクの前にかけてあったタオルできゅっと手を拭き、ニヤッと笑うと切れ長の目で俺を見た。「浮気したら許さないから」

 俺はゾワッと体中の毛が逆立つような興奮を覚えた。浮気なんかするつもりはないし、好きでもないのにセックスする人間だと疑われているにもかかわらず、だ。やべぇな、こいつ。

 さすが元彼に寵愛されていただけのことはある。

 上條は自分のことを、数いるセフレの1人だったと思ってるみたいだけど、クリスマスなんて大事な日のデート相手に選ばれてる時点で本命だって普通気づくだろ。しかもはっきり『1番好きだ』って言われたらしいし。まあ、そいつが他にもつまみ食いしたがるクズ野郎で助かった。おかげで上條は元彼の本心に気づいていないし、俺も教えるつもりはない。

 あと上條には悪いけど、早いうちに引っ越しを決めた上條母ちゃんにも感謝。でないと今頃、上條は身辺整理を始めた元彼と相思相愛になっていてここには居ない。そんなこと、考えただけでゾッとするな、と俺は大皿の泡を洗い流し水切りカゴに入れた。


「あ、そうだ。オレンジ食べる?」

 俺は上條の返事を聞く前に冷蔵庫に行って中から冷えたオレンジを取り出した。レモンは、さっき炭酸水に搾って昼ごはんのときに飲んだ。上條母ちゃんの唐揚げはそのまんまで十分旨いので、レモンをかける必要なんてない。

 キッチンでまな板と包丁を取り出し、まな板の上に洗ったオレンジを載せる。

「左利き用の包丁、買ったの?」

 上條が俺の手元を覗き込んで言った。ちょっと、見られると緊張するから離れろって。

「今どきのやつはほとんど左右兼用なんだって。上條は座ってろよ」椅子を指差しながら俺は言った。

「兼用?そんなのどこに売ってた?」

 ダイニングの椅子に腰掛けながら上條が訊ねる。

「ドンキ」

 俺はそろ〜っと包丁の刃の部分をオレンジに押し当てながら答えた。

「えっ?杉本、ドンキなんて行くんだ」

「行くよ。めちゃめちゃ行くよ」

「なんかもっと、ハイブランドな店にしか行かないと思ってた」

 なんだそれ。俺、どういうイメージだよ、って、あれ?オレンジってなんで転がるんだ?……丸いからか。怖っ!今、指切りそうだった。ていうか、これどこ持てばいいの。うぎゃっ、変な形になった!ムズい…。

 最後まで切り終わったときまな板の上には、果肉がグシャと押し潰され、大きさや形が破片ごとに異なる、無惨な姿となったオレンジとおぼしき物体が散乱していた。まるでオレンジ色の血の海に横たわる惨殺死体だ。

 おかしい……あんなに包丁、ななこさんと練習したのに。そんときは丸いものじゃなくて細長いものだったけど。

 むうっ、と俺はヤケになって、すぐ横の水切りカゴからまだ水の切れていない大皿を引き抜くと、上に惨殺死体の破片をポイポイッと載せ、まな板の横に置いたままにして手ぶらで上條の座っている椅子まで行った。

 そして上條の長い脚の上に、向かい合わせになるようにヨイショと自分の脚を跨がらせて座ると、上條の首に腕を回し、目を閉じて、んー、と唇を突き出す。はい、デザートは俺ですよー。

 ちゅっ、と、ついばむようなキスをされて思わず目を開けた。すぐ目の前で上條が微笑む。優しい目。大好きだ。

 俺は自分の唇を上條の唇に押し当てた。最初は浅く、だんだん深く。

「んっ…んっ…」

 まんべんなく舌を絡ませる。さっきまで食べていたのがカレーと唐揚げだなんて信じられないくらい唾液が甘い。

 俺、ディープなやつすると、どうしても声出ちゃうんだけど、なんで?上條は出ないのに。

 ところで今日はいいんだよな?と上條の服の下に手を入れようとしたそのとき、「待って」上條がまたしてもストップをかけた。

 んもーっ、なんだよ毎回毎回!いいとこで寸止めしやがって!おまえは寸止め名人か!とギロッと上條を睨んでやったら……ん?なんか、上條がモジモジして、ちょっと顔赤い?更には俺と目が合わないようにぎゅっと黒目だけ横に逸らしている。そして、上條はますます顔を赤らめながら、声のボリュームを最小限にまで落とすと言った。「ここ…暑くない?」

 ん?んん?これは、いわゆる……『お誘い』ってやつですか?

 俺は体を横に傾けて、上條の視線の先に顔を持っていく。その途端上條の視線がパッと逆側に移動する。だよね?

「じゃあベッド行く?」

 俺は上條の耳元で囁いた。

「……うん」

 そういうことなら大歓迎、と俺は上條の上から降りると手を引っ張って上條を立ち上がらせた。

 そして2階にある俺のベッドに連れて行こうとほとんど走る勢いで階段に向かうと「あ、あれ持っていっても大丈夫?」と上條に繋いでいた手を引き戻された。

「あれ?」

「あれ」

 上條が指差した先には、さっき俺がやっつけたオレンジの惨殺死体。

「あとで2階で一緒に食べない?」

 上條……あんなのもう捨てちゃってもいいくらいなのに。優しいヤツ。やっぱり大好きだ。


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