第32話

 久しぶりに来た。

 広くて綺麗なエントランスに足を踏み入れ、オートロックの前に立つ。まだ建って間もないような、劣化がほとんど見られない8階建てのマンション。

 一応、鍵は預かってはいるが、俺は少し迷ったあげく、目の前の数字の書かれたボタンから自分の家の部屋番号を選んで押した。

「どーぞー」

 少しの間があってから、インターホン越しに聞き慣れた母の声がして、左側の自動ドアが開く。

 俺は自動ドアを潜るとホールの左端にあるエレベーターの上りボタンを押すと、エレベーターが降りてくるのを待った。


 杉本が3限目の途中で学校に来たあと、俺は今日の予定を杉本に話した。杉本は、大きな目で数秒間、俺の顔を見つめてから「うん、わかった。んじゃ、武センとこには1人で行ってくるわ」と言った。

「え?今日も武センとこ行くんだったの?」じゃあ明日にしようかな…と小さく呟くと、「だーかーら!お兄ちゃん過保護すぎだって。俺、1人で大丈夫だっつーの」と肩をバンバン叩いてくる。最初に終わるまで待っててって言ってたのそっちのくせによく言う、と呆れたけど、そこは杉本なりの気遣いなんだと勝手に解釈をして、俺は有り難く1人で先に学校を出た。

 そして、電車の中で吊り革に捕まりながら、いつもの駅では降りずに、もう1つ先の駅でホームに降り立った。


 4階でエレベーターを降りると、通路の先に、片手で赤ちゃんを抱っこしながら玄関扉を背中で押さえ、もう片方の手でベビーカーを苦労して家の中に入れようとしている若いお母さんの姿が目に入った。俺はすぐ走っていって、玄関扉が閉まらないように片手で押さえてやる。

「あ、すみませ〜ん」

 まだ新米ママといった感じの女性が、申し訳なさそうに頭を下げた。

 そのとき、俺の後ろでガチャと扉の開く音がすると「あらっ」と俺の母親が顔を出した。

 俺が押さえている扉は、俺の家のお隣さんの扉だった。

 俺の母親が外まで出てきてベビーカーを玄関内に入れる作業を手伝いながら、「なぎさちゃんのお散歩?」と若いママに訊ねる。

「そうなんです〜。ホントは午前中の涼しいうちに行きたかったんですけど、グズっちゃって〜」

「赤ちゃんはいつご機嫌が変わるかわかんないもんね〜」

 さすが社交性高めの母親なだけあって、息子との方が歳が近いんじゃないかと思うお隣さんともすっかり仲良しの様だ。そして2人で、ヨイショと玄関の隅っこに畳んだベビーカーを収めると、「えっと…」と若いママが俺の顔を見た。

「ああ、息子。ほら、この前言ってた」

 俺の母親が笑顔で言った。その声にはなんの後ろ暗さも感じられず、俺はなんだか腑に落ちない気分になったが、取り敢えず「こんにちは」と挨拶しておいた。

「こんにちは〜。お母さんにはいつもお世話になってます。子育てのこと色々教えてもらったり」

 屈託のない笑顔で言われて少し複雑な気分になる。いえ、うち結構こじれてますから、参考になるかどうか…。

 そのとき、渚ちゃんと呼ばれた赤ちゃんが「うぇっ…」と泣き出しそうな声をあげ、「あ、それじゃ」と若いママは慌てて家の中へ入って行った。

 取り残された俺と母親は、「入って」と微かに笑う母の声をきっかけに、2人で家の中へ入った。

 我が家…と呼んで良いのだろうか。ここで過ごした時間は僅かだ。こっちへ越してきてから、俺のアパートの準備ができるまでの間。

 入ってすぐ、いい匂いがした。この匂いは…唐揚げの匂いだ。スーパーの唐揚げもいいけれど、残念ながら家ではないと出せない揚げたての香ばしい匂い。俺が大好きな、母の料理のひとつだ。

「三者懇談、27日でいいんだっけ?」母が言った。

「あ、うん」そうなんだけど…今日はその話をしに来たわけじゃなくて…。

「あのさ…」

 口を開きかけたそのとき、「お母さんさ、麻也が家を出てってなかなか家にも帰って来てくれなくて、すっごい悲しかったよ」いきなり先に愚痴られてムカッとなった。

「だから、それはさ!母さんが俺の気持ちわかってくれないからさ…」

「だってなんにも言ってくれなかったじゃない!聞き分けいいフリしてさ、実はもうお母さんに会いたくなかっただけでしょ!」

 逆ギレだ…。サイアク…もう帰りたい。杉本の顔が浮かぶ。駄目だ、逃げるな。

「だから、今日、話しに来たんだよ。俺が、あのときどんな気持ちだったかを」

「わかってるわよ」

 え?急にトーンが下がった母さんの顔を見る。涙…?

「お母さん麻也に『他人のフリでいい』って言われてすごいショックだった。親に向かってなんてこと言うんだって。でもさ、暫く離れてみてさ、思ったんだけど…それを言わせたのはさ、お母さんだよね」

 母さんが食卓の上のBOXティッシュの箱からティッシュを抜いて鼻をかんだ。

「あのとき私が自分の気持ちを優先したことで麻也は怒って心を閉ざしたんだって思った。もう開かないのかなって…じゃあどうしたらいいのかな、私が我慢すればいいのかな、それともこのまま別々に暮らすしかないのかなって…でもね…」

「ちょっと待って、俺にも喋らせて」

 放っておくと延々と喋りそうな母親を制して、俺は息を吸い込んだ。

「正直、心を閉ざしてたのは本当。俺の気持ちを訊かずに勝手に色々決められたことがショックだったし悲しかった。でも別々に暮らしたかったのは、怒ってたからじゃなくて、お互い無理したくなかったからだよ」

 いや…2割くらいは怒ってただろうか…まあ今はそこはいいか。

「でもさ、俺…」

 もう一度息を吸い込む。「やっぱり出来たら母さんに俺のこと受け入れて欲しい。もうクラスのみんなにはカミングアウトしたんだ。それでも家族で一緒に暮らしたい。無理なら今のままでいい」

 言えた。俺が、今日、1番言いたかったこと。家族にもちゃんと受け入れて欲しい。そして自分を押し通すために更に嘘を重ねる生活はもう嫌なんだ。

 暫く母さんと見つめ合う。すると真顔だった母さんの顔が急にぐしゃっと崩れた。

「知ってる!先生に聞いたし、もう、受け入れてる!一緒に暮らす準備も出来てる!」

 ええっ?!先生に聞いた?いつの間に?

「じゃあ、なんで早く言ってくれないの?!」

「だっで、あざやがおごっでるとおぼっだがらあ〜」

 母さんが、わーんと泣き出した。子どもか!

「だから、変な格好で俺のアパートの周りウロウロしてたわけ?」

「へ?」

 泣いていた母さんが突然電池が切れたみたいにフリーズする。

「気づいてたの?」

「まあね」

 嘘だ。俺が気づいたわけじゃない。

 杉本がまだ俺と住んでいた頃、1人でコンビニへ行った杉本が帰ってくるなり、「今、外で頭スカーフ巻いてサングラスかけるってベタな変装した人がこの部屋見上げてたけど、あの人、上條の母ちゃんじゃねえの?」と言っていたことがあった。やっぱり、あれ、そうだったか。

「だって麻也、全然会いに来てくれないし〜ピンポンして追い返されたら嫌だし〜」

 母さんがまた泣き出した。

「泣くなよ」

「麻也だって泣いてるじゃん」

 わかってる。さっきから目が熱い。

 まったく、お年頃の男子を母親の前で泣かせるなよ、小っ恥ずかしい。

 でも今、びっくりするくらい心が軽い。スルスルと何かが溶けていくのを感じる。裏を返せば、今まで俺、どれほど気が張ってたんだよって感じだ。

 杉本の声が聴こえる。

(泣き虫だなあ、お兄ちゃんは)

 うるさい。俺はおまえのお兄ちゃんじゃない。大体、俺はおまえと会うまではこんなに泣く人間じゃなかったんだぞ。

 ああ……杉本に会いたい。


 その後、食卓について母さんと一緒に母さんが作った唐揚げを食べた。

 やっぱり俺の手抜き料理なんかと全然違う。この味には敵わない。

「でも、ホントにいいわけ?」

 俺は唐揚げを口に入れながら母さんに訊ねた。

「何が?」

「ゲイの息子の母親ってことになるんだよ?」最終確認のため、敢えてハッキリとした言葉で表現した。

 ああ、と母さんは自分も唐揚げをつまむと、「実はね、さっきの人にはもう話したんだよね」と事も無げに言ってみせた。

「え?さっきの人って…」

「うん。お隣さん」

 ええっ?じゃあ、さっきの、この前言ってたって…そのこと?

 俺が啞然としていると、「実を言うと、あの人のおかげで吹っ切れたっていうのあるのよね」と母さんは笑顔をみせた。何、その爽やかさ。俺の知らないところで勝手に吹っ切れないでくれる?

「あの赤ちゃん、男の子か女の子かわかる?」

 いきなりクイズが始まった。なんの話だ、と思いつつ考える。

 えと、名前が『渚』で服の色も薄い水色だった…わかりづらいな。

「男の子?」

「ブー。女の子でした」

 母さんが、してやったりという顔で笑った。なんか、腹立つな。

「あのお母さんね、お友だちにがいるらしくて、大人になったら自分で性別が選べるように、敢えて『男らしさ』とか『女らしさ』とかに偏らないように育てたいんですって。それ聞いて、ああ、もう性別にとらわれてちゃダメなんだって思ってね。それで麻也のことも話しちゃった」

 てへへと母さんが笑う。てへへじゃねえ。多分、俺とは意味が違う。わかってんのかな、この人…と次の唐揚げをつまんだとき、突然、俺の頭に悪魔の考えが浮かんだ。

「じゃあさ、今度、俺の好きな人、ここに連れてきていいよね?」

「えっ?」

 母さんがつまんでいた唐揚げをポロッと皿に落とした。

「えっ?えっと…好きな人って、その…つ、付き合ってるってことよね?」

 付き合ってる?うーん、俺と杉本って付き合ってるっていうのかな。

「うん。付き合ってる」

 まあ、いいか、としれっと言ってやる。途端に母さんの目がせわしなく右へ左へと泳ぎだした。

「あ…う、うん、もちろん!もちろん、いいわよ?え〜と…何か、作ろうかしらね〜」

 思い切りキョドってる母さんを見て吹き出しそうになるのを必死で堪えながら、俺は唐揚げを口に入れた。




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