第27話
薄いカーテンの向こうで外がだんだん白み始めても、俺と杉本は、杉本の布団の上でずっと黙ったまま並んで横になっていた。その間、杉本の手は、ずっと俺の手の上に重ねられていた。
俺はそんな杉本の横顔を眺めながら、今日、起きたらなすべきことを何度も考え続けていた。だからアラームが鳴ったとき、即座に起きあがるとそれを行動に移した。
まず杉本と俺の分の朝ごはんを作って2人で食べる。そしてスマホで、杉本を連れて行くための病院を探し始めた。
『眠れない』という症状を、どこで診てもらえば良いのかわからなくて、取り敢えず内科に行ってみようと当たりをつけた。
「この辺の病院はみんな親父の知り合いだから行きたくない」と杉本が言うので、少し離れた場所で探すことにした。
そして学校が始まる時間を待って、それぞれに考えた仮病の理由で欠席の連絡を入れ、病院が始まる時間を待って、俺が杉本の名前で予約の電話を入れた。
隣町にある病院へ向かう電車の中で、俺と杉本は一言も言葉を交わすことはなかった。でも、言葉の代わりと言っていいのかわからないけど、アパートを出てから電車の中でも俺と杉本はずっと手を繋いでいた。
通勤ラッシュが少し落ち着いた車内には、まだ出勤途中のサラリーマンがチラホラ乗っていて、こんな時間に手を繋いで電車に乗っている男子2人ってどうなんだろうと後になったら思っただろうが、そのときは人目なんかまったく気にならなかった。
そのときの俺の意識の中には、ただ杉本の手から伝わる温度や感触や『俺はここにいるよ』という言葉にならない主張しか入ってこなかった。
たどり着いた内科の病院は、その外観からまだ開業したばかりなのかと思うくらい、とてもモダンで新しそうな病院だったけれど、通されて入った診察室には、そこそこ『ベテラン』なんじゃないかと思うくらいには年のいった中年の男の医師が座っていた。
身内でもない俺が診察室にまで入るのはどうかと思ったけど、杉本がどうしてもというので、一緒に中まで入った。関係性を訊かれたら「兄です」としれっと嘘をつくつもりだった。
俺は杉本に代わって、『夜、寝てもすぐ目が覚めてその後眠れないこと』『屋上から飛び降りたい気持ちになること』を医師に告げた。杉本の家のことや俺と2人で暮していることまでは、取り敢えず様子を見てから話そうと思った。
医師は暫く、うーん、と目の前のデスクに置かれているパソコンの画面を見つめながら何か考えていたけれど、何もパソコンに打ち込むことなく突然くるっと椅子ごと杉本の方を向くと、「眠れるようになる薬ならここでもお出しすることはできます。でも、杉本さんは一度、『心療内科』を受診されて、そこでしっかり治療方針をたてることをお勧めします」と、はっきりとした口調で言った。
心療内科。
俺の心臓がまるで氷水をかけられたようにヒヤッと一気に冷たくなった。
心の問題…ってことなんだろうか。なんとなくそんな気はしていた。でも、医師にはっきり告げられたことで、その現実が重く俺の肩にのしかかった。
心臓がドキドキと痛いくらい早く打っていた。
杉本の後ろに座っていた俺からは杉本の背中しか見えなくて、そのとき杉本がどんな顔をしていたのか、俺は知らない。
その後、医師に紹介状を書いてもらい、近くの心療内科を教えてもらった。待合室で待っている間、杉本は無表情のまま一言も喋らずにただ、俺の手を握っていた。
会計を終え、病院から出ると、さっそく教えてもらった心療内科に電話して、今日診てもらえるか訊いてみると、完全予約制のため、予約の方が優先になりますので少しお時間かかりますがよろしいですか?と言われたが、迷わず「お願いします」と言ってその足で言われた場所へ向かった。
心療内科は思っていたイメージとまったく違った。なんとなく怖い場所だと勝手に思っていたけれど、院内はとても明るく柔らかな色に包まれ、静かな音楽が流れる優しい空間になっていた。
俺たちは保険証と紹介状を受け付けに出し、さほど混んではいない待合室の椅子に並んで腰をおろした。
混んでいないのは当然だ。完全予約制なのだから。待合室で待っている俺たちの前で、診察を終え帰っていく人、そして入ってくる人が次々と入れ替わっていく。心療内科を訪れる人たちが、あまりにも普通で少し驚いた。見る限り、とても心を病んでいるとは思えない。でも人数だけなら内科に負けていないんじゃないかと思うくらい、何人も何人もやってくる。世の中にはこんなにも心の
「杉本さーん、杉本真咲さーん」
思ったよりも早く呼ばれて慌てて立ち上がり、さっきと同じように俺も一緒に診察室に入った。
「こんにちは〜。よろしくお願いします」
入ったそうそう医師の方から挨拶された。
心療内科の診察室は完全な個室になっていて、看護師すらおらず、そこにはニコニコと優しく微笑む医師が1人いるのみだった。
俺はまたしれっと杉本の後ろに座り、医師の手に紹介状があるにも関わらず、念の為さっき内科で言ったことと同じことを、さっきよりも少し緊張しながら繰り返した。
医師は俺の話を遮ることなく「うん、うん」と相槌を打ちながら聞いてくれ、俺と杉本の関係性には一切触れず、杉本に向かって「そうですか〜、それは辛いですよね〜」と共感を示す、少し困ったような微笑みを浮かべた。
そして傍らにあったパソコンに向かうといきなり真剣な顔になり、「じゃあですね」と少し考えてからカタカタ何やら打ち付けると、「はいっ」と、まるで手品の種明かしをするみたいにパソコンの画面をくるりとこちらに向け「これが、眠れるようになるお薬。これが、眠りを持続させるお薬。この2つを寝る前に1回。そしてこれが気持ちを安定させるお薬。これは、朝夕2回。あとこれが頓服で、どうしても不安が強くなったときに飲むお薬」と、パソコン画面に表示された薬の名前をひとつずつ指差しながら説明していった。
そして「1週間分、お出ししておきますので、どんな感じだったか1週間後に教えていただけますか?」と微笑んだ。
「わかりました」
始めて杉本が医師に向かって声を出した。
「はーい。じゃあ1週間後、来れますかね?」
「あ、学校があるので夕方でもいいですか?」
俺は慌てて口を挟んだ。
「全然いいですよ。じゃあ1週間分と追加で夕方の分、出しておきましょうか。時間は…」
医師がパソコンに目を走らせる。
「5時…か5時半が空いてますけど」
えーと、来週は…うわ、期末テストだ。テスト期間中、学校は早く終わるから「5時でお願いします」
「はい、じゃあ来週の5時で。お待ちしてます」
医師が強制終了の笑顔を浮かべ診察は終わった。
え?これだけ?
心療内科って、もっとじっくり話を訊いたりテストしたりとかして、こうなった原因とか探って治す方法、考えたりしないの?
なんだか、腑に落ちない気持ちを抱えてモヤモヤしたまま、待合室に戻って会計待ちをした。
チラッと横目で杉本の様子を伺うと、なんだかさっきよりも少し生気の戻ったような顔になっていた。
帰りの電車はガラガラに空いていて、俺と杉本は適当な場所を選んで並んで椅子に腰掛けた。手はやっぱり繋いだままだった。
俺は杉本に気を使って、余計なことは喋らないように黙っていたけれど、電車が走り出して間もなく経ったとき、杉本が不意に「俺、遅かれ早かれこうなってたと思う」と独り言のように呟いた。
「え?」
「俺、自分ちに居たときもたまに眠れなかったんだよ。友だちが遊びに来て帰った後とかさ、1人になるとなかなか眠れなくて、朝まで寝られないとそのまま学校行くんだけど、変な時間に寝ちゃうと起きれなくてさ、遅刻ばっかりしてた」
俺は、しょっちゅう1限目の終わりとか2限目の始めに教室の後ろから入ってくる杉本を思い出していた。
そして、杉本がこの話をし始めた真意に思いを巡らせた。『だから上條のせいじゃないよ』そう言いたいの?いや、自分に都合のいい解釈はやめよう。どちらにしろ、俺の傲慢が、今回のことを引き起こしたきっかけになったのは間違いない。だから考えなくては。このあと、俺たちはどうするべきなのかを。
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