第26話

「杉本、お昼どこで食べてるの?」

 俺は周りにチラチラと目を走らせながら、隣を歩いている杉本に向かって訊ねた。まだ学校を出ていくらも経っていない道路は、そこを走る車の妨げになりそうなくらい友だちと談笑しながら帰宅する生徒たちでいっぱいだ。昼休みに杉本の仲間たちに言われた言葉が思った以上に俺の胸に強く刺さっていた。『ずっとあいつといるじゃん。ほら、あのホモのやつ』

「別に色々。花壇のとことか、階段下とか……屋上とか」感情の読めない顔で杉本が答えた。

 今、『屋上とか』の前、ちょっと間があったな。中庭行った?ねえ中庭行った?

 気になるのに訊けない俺。だって敢えて中庭を避けていたんだとしたら…それは俺のせいだろ。俺が『俺を選べ』って顔して杉本は俺を選んだか   ら、そして俺と暮らしているからあいつらとは一緒に遊べないんだろ?俺は杉本に悪いことをしているんだろうか、という考えたくもない不安が頭をよぎった。

 駅に向かう道に沿ってアザミの花が咲いていた。もう夏が始まろうとしている。

 いや、こうなったら俺が杉本を楽しませてやる。杉本に俺を選んだことを後悔させたくないから。

「杉本」

「ん?」

「帰り、スーパーに寄ろう」


 俺にとってのアミューズメントパーク、スーパーの自動ドアを杉本と2人で潜る。買い物カゴがたくさん積まれ、買い物カートが縦にたくさん連なっているそのスペースで、俺は思わず立ち止まって、壁に貼ってある今日のチラシをガン見した。

 玉子が1パック98円お一人様おひとつ限り。杉本がいるから、ふたつ買える。鶏ササミ肉が100g58円。これは買いだな。おっ、めんつゆが安くなっている。まだ家のが残っているけどストックしておいてもいいな…などと考えていると、隣ですでにカゴを持ち、手持ち無沙汰に待っている杉本と目があった。

「買うもの決まった?」

 杉本が俺の顔を覗き込むようにして言った。

 違う、今日は激安品を探しに来たわけじゃない。慌てて今日の目的をもう一度自分に言い聞かせる。俺は俺のやり方で、杉本を楽しませるんだ。

「杉本、今日、何食べたい?」

「えっ」

 無謀な質問かも知れなかった。なんせこいつはいつも外食といえば高級店、家ではプロの家政婦さんの作ったものを食べて育った人間だ。一緒に暮らし始めてからはずっと俺が作る手抜き料理ばかりを問答無用で食べさせているけれど、今日はなんとかできるだけリクエストに応えてやりたいと思った。

 杉本は、思ってもみなかったことを言われたとばかりに面食らった顔をして、「なんでもいいよ…上條の作ったものなら」と遠慮がちに言った。

 こんな台詞を言われたら素直に喜んでおくべきところなのだろうが、俺はどうにかして杉本の笑顔を引き出したくて、「なんでもいいが1番困るの。はい、言って」と無理矢理答えを促した。

「ん、ん〜…じゃあ…」

 杉本は手を口元に持っていきながら暫く考え込むと、「カレーかな」と呟いた。

 「カレー…」それはそれで難易度が高い。幾種類ものスパイスを駆使してルウを作るところから始める本格カレーから、市販のルウで作る簡単カレーまで幅があり過ぎる。

 俺はとりあえず、「スパイスとか使った本格的なのは無理だけど」とお伺いをたててみた。

 それを聞いた杉本が、ふはっ、と笑う。

「そんなの求めてないよ。普通のやつ」

 意図した形とは違うものの、とりあえず笑ってくれたことに俺は安堵を覚える。そして、思う。俺はどうして、杉本が笑うと『安心』するんだろう。『嬉しい』じゃなくて。最近杉本に元気がないことが気にかかっているからなのか、何かに対する後ろめたさからなのか。その『何か』とは『後ろめたさ』とは何なのか。そのときはまだわかろうとしていなかった。多分わかっていたはずなのに。


 アパートに帰った俺は着替えることもせず、さっそく包丁を出して野菜を切り始めた。カレーは煮込むのが1番時間がかかるので、取り敢えず材料を切って鍋に入れて火にかけておけば、他のことは煮込んでいる間にやればいい。

 杉本が珍しく「一緒にやる」と言ってきたけど、カレーは材料を切るくらいしかやることがないので、ピーラーもないんでは他にやってもらうことも見つからず、久しぶりのやる気に水を差すようで申し訳ないけど「大丈夫。座って待ってて」と追い払った。


「めちゃくちゃうまい!やっぱ上條天才!」

 市販のルウで味付けしただけのカレーにこれだけの賛辞を送られるとさすがに引いてしまうが、取り敢えず喜んでもらえたようなので、久しぶりに袋入りのカット野菜じゃなくちゃんと自分で野菜を切ってまで作った甲斐があったと自分を納得させた。

「残ったのどうする?」

 食べ終わった杉本が、流しに空いたお皿を運んで行ったついでに、鍋の中を覗く。「あー…明日もカレーになっちゃうけど、いいかな」恐る恐る訊ねる俺。2日目のカレーなんて俺には常識だけど、杉本にとってはどうなんだろう。

「2日目のカレーね!やった」

 そんなに珍しいものでもないのに杉本は目を輝かせた。俺はまた、安堵する。

 2人で食べるカレーは、2回も出せばあっという間に無くなる。そんな事実に密やかな幸せを感じながら、俺は残ったカレーを鍋のまま冷蔵庫に仕舞った。


 何時頃だったんだろうか…。まだ部屋は真っ暗だったと思う。

 眠っていた俺の胸元に何かが触れる気配がして目が覚めた。

「ん?」

 夢うつつのまま声を出す。

「一緒に寝ていい?」

 杉本の声がした。

 ああ、杉本か…と思いながら「うん」と多分、返事をして、ほとんど意識を眠りに持っていかれながら、なんとか体を壁の方に寄せた。

 そして杉本が隣に入ってくる頃には、俺はもうすでに眠りに落ちてしまっていた。


 ピピッピピッ

 アラームの音でハッと目を覚ました。カーテンを引いていてもなお、部屋の中はもうとっくに朝の光で明るくなっている。

 杉本。

 瞬時にゆうべの出来事を思い出すが、俺の隣は空っぽで、杉本は自分の布団の中で横になっていた。

 あれ?あれは俺の願望が作り出した夢だったんだろうか…と思いながらベッドを降りて「杉本、朝だよ」と体を揺すると、杉本は、今、起きたとは到底思えないはっきりとした口調で、「俺、今日休む」と目を閉じたまま言った。

「え…調子悪いの?」

 ザワッと胸が騒く。どちらかが病気になったときのことなんて、まったく想定していない。しておくべきだった、と今更後悔してみてももう遅い。

 この部屋には体温計すら置いていないので、取り敢えず手を杉本の額に当ててみたけど、そんなのは気休めにしかならず、熱の具合はよくわからなかったが、俺の手のすぐ横で杉本の目がうっすらと開いた。

「大丈夫。なんかちょっとだるいだけだから」そして布団を頭までかぶると、「上條は学校行って。俺、自分で学校に電話するし」と言ってそのまま布団の中でうずくまってしまった。

「あ…うん…じゃあ、なんかあったら連絡して」

 このまま1人にしても良いのか気がかりではあったけど、どうすればいいのかわからないまま、取り敢えず俺は朝の身支度を終え、杉本の分の朝ごはんと、おにぎりを2つ作ってラップしたものをテーブルに置くとアパートを出た。


 学校に行っても俺はずっと落ち着かず、眠っていたら申し訳ないなと思いつつも、放課になる毎に杉本に『大丈夫?』とメールを打った。

 返信は、毎回5秒もたたないうちにやって来た。『大丈夫』と。

 一度だけ、返信が来るまで1分くらい空いたときがあったけど、その時は『トイレ行ってた。大丈夫』と律儀に返信が遅れた理由を書いて寄越した。

 こんなの俺が安心したいがためにやっていることで、杉本は俺を安心させるためだけにやっていることだと気付いたのは、午前中の授業が終わり、もう昼休みになろうという頃だった。

 高橋に「ちょっと具合が悪いから帰る」と言いおいて、その足で武田先生のところへ帰る旨を伝えに行こうと職員室に向かったけれど、先生に言ったら保健室行きかも知れないと思い直し、俺は生まれてはじめて黙って午後の授業をサボるという行為に及んだ。親に電話されるか明日呼び出しかも知れないという問題は、もう後回しだ。とにかく杉本が心配だった。


「あれ?上條、なんでこんなに早いの?」

 駅から走ってきたために息を切らしながらアパートに帰った俺を、ローテーブルの前でおにぎりをもしゃもしゃと食べている杉本が迎えた。

「杉本、体調は?」

「大丈夫だっつってんじゃん。もしかしてそれで早退してきたの?」

「だって…」

 気になるだろ、と向かいに腰をおろしながら息を整える。

「過保護だな〜、お兄ちゃんは」と、杉本がもう1つ残っていたおにぎりを皿ごとこっちに差し出した。俺はそのおにぎりを掴むと無遠慮に噛じりつく。お昼ごはんを食べそこねていたので腹が減っていた。そして杉本が思ったより元気だったのでほっとしていた。

「俺がお兄ちゃん?俺、12月だよ?誕生日。杉本は?」

「4月」

「ぶっ!絶対そっちがお兄ちゃんじゃん。ていうかもう終わってんじゃん」

 そして、4月って杉本は何か家族にお祝いしてもらったのかな?と思い…

「あれっ、もしかしてななこさんがパウンドケーキ焼いたのって」

「せいかーい。あの日が俺の誕生日でしたー」

 杉本が親指をたててグッドの合図をした。

 あの日って…俺が散々、杉本に過去の愚痴をぶつけて泣いて恥をさらした日じゃんか。

 俺は顔が熱くなっていくのを感じながら、「言えよ、そういうことは」と恨めしげに杉本を睨んだ。杉本は例にもれず、きひひっと笑う。


 何か予感めいたものがあったのかも知れない。


 その日は午後中うだうだして、母親から来た『先生から、具合悪いから帰ったって電話もらったけど』というメールを適当にあしらい、昨日のカレーを温めて杉本と食べて、シャワーを浴びて少し勉強して、ベッドに入った。

 杉本が電気を消して布団に入り、ちゃんと寝息に変わるのを確認してから、眠りについた。

 そして予感に導かれるまま、まだ部屋が暗いうちに自然に目を覚ました。

 杉本の方を見ると、杉本は布団の上で上半身を起こして膝を抱え、膝と膝の間に顔を埋めていた。

「杉本」

 俺の全身が一気に覚醒する。

 電気をつければ良かったのかも知れない。でもそのときは、なんでか月の灯りだけが杉本の様子を伺う唯一の手がかりだった。素早くスマホの画面で時間を確認すると、そこには3:32と表示されていた。

 俺はベッドから降りて、杉本の前に膝をつき、もう一度「杉本」と声をかけた。そして、一度息を大きく吸い込むと、ついに俺にかかっていた、すべてを壊すバイアスを外した。

「眠れてないんじゃないのか?」


 俺が訊ねても杉本はピクリとも動かなかった。

 俺の呼吸と心臓が、互いに呼応して速度を上げていく。

「最初は眠れるんだ…」

 杉本が、顔を埋めたまま呟いた。

「でも、すぐ目が覚めて眠れない」

 俺の中で、すべてがつながっていく。

 最近ずっと俺よりも早く起きていた。ベランダで朝焼けを眺めていた。夜中に俺のベッドに潜り込んだ。だんだん元気がなくなっていった。

「俺、今日も学校休む」

 泣き出しそうな声で杉本が言う。

「俺、学校行くとさ…」

 ズッと鼻をすする音。

「屋上から飛び降りたくなるんだよ」

「杉本っ!」

 俺は杉本の肩を掴んで、無理矢理、上を向かせた。

 杉本の目は、俺の視線上にあるにもかかわらず、俺の目を見ているのではなくどこか見知らぬ宙を見ているようだった。

 ぽたん、と水滴が落ちて杉本の布団を濡らした。

 杉本の目を見ても、そこにはどこまでも深い闇があるだけで涙は流していない。それは自分が流した涙だった。

 俺はきっとわかっていた。杉本が、幸せだった頃の家族の思い出が詰まったあの家を愛していたことも、お父さんが自分のことを愛しているとわかっていたことも、同じように新しいお義母さんと妹を大事に思っていることを受け入れていたことも、自分を楽しませてくれる友だちを繋ぎ止めたかったことも、それをするためにはお金が必要だと思っていたことも。でも俺が勝手にそれらを悪いものだと決めつけて、杉本から全部引き離して、俺が作った世界に杉本を閉じ込めた。杉本のためじゃない。俺が杉本と一緒に居たかったから。そうしていれば自分が楽しかったから。

 俺はきっとわかっていた。杉本にはこの生活は向いていない。でも離したくなかった。きっと…


 きっと、俺が杉本のことを壊した。


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