第22話
杉本んちと俺のアパートを2回往復して、ようやく荷物をすべて運び終えた。
1往復した時点で杉本んちに戻ると、もう杉本のお父さんの車は家のガレージから消えていた。結局、何しに来たのかよくわからない、と杉本は言っていた。俺は、もしかしたら、俺たちが妙な動きをしているので、家の誰かが連絡したのかも知れないな、とちょっと思っていた。
俺の部屋のフローリングの床に、2人で苦労して2階まであげた、3つに折り畳んだ敷き布団と掛け布団と枕のセットを置いて、ひとまとめにくくってあったビニール紐を解くと、杉本はそのままバフンと布団に顔を埋めた。
「今日からここで上條と一緒?」
布団の綿にその響きを持っていかれて少しくぐもっている声が、ダンボールのガムテープを剥がしている俺の耳に届いた。
「そうだよ」
「オナニーはどうするの?」
「……シャワーのときは、お互い覗かないってことでいいんじゃない?」
杉本が布団から顔をあげて俺の方を見た。
「そっか」
そして、嬉しそうに微笑んだ。心から。
俺は、その笑顔を見てホッとする。心から。
もしかしたら少し強引に杉本を連れてきてしまったかも知れない、とちょっと不安になっていた。でも間違ってない。これで、いいんだ。大人たちがなんて言おうと、俺たちのしていることは間違ってない。そう思ってた。
その時までは。
俺の荷物を強引に寄せて無理やりスペースを作り、そこに杉本の荷物を押し込むと、その日はもう適当にご飯を食べて早めにシャワーを済ませ、俺はやっと落ち着いてローテーブルの前であぐらをかくと勉強に取り掛かった。
杉本はというと…
「あの…暑いんだけど…」
俺は、俺の背中にべったりと自分のお腹をくっつけて腕を俺のお腹に回している杉本に訴えた。
お互い、半袖半ズボンのてろんとした部屋着なので密着度はかなり高い。ちなみに杉本は部屋着もかなりカラフルだ。
「いいじゃーん。これ、落ち着くわー」
「勉強しろよ」
「嫌だ」
杉本がスリッと頬を俺の肩にこすりつけた。おいおいおい、やめろ。違う意味で熱くなる。
「杉本、これ教えて」
俺は杉本の腕から逃れる口実として、丁度取り組んでいた数学の問題をシャーペンの先でトントンとノックした。
「え〜」
杉本は、腕の中からスルリと逃げる俺に向かって不満そうに口を尖らせながらも、俺が
俺はその様子をテーブルに頬杖をついて見ていた。
「この虚数ってさ」
真剣に教科書を読み込んでいた杉本が突然、口を開いた。
「なんか可哀想だな」
「可哀想?」
「うん」
いきなり何の話が始まったんだろう、と俺は眉をひそめる。
「実際は存在しない数なのにさ、都合よく使われるためだけに勝手に作り出されてるんだよな。なんかアイデンティティが錯綜しそう」
「…数にアイデンティティを求めるなよ」
ふはっ、と杉本が笑った。
杉本はたまに俺の考えの及ばないことを言う。俺が知りたいことはもっとシンプルだ。
「お父さんのこと、どう思ってる?」
杉本のページをめくる手が止まった。
触れられたくないことかも知れない。でも、やっぱり訊いておかずにいられなかった。何か閉じ込めた思いがあるなら、ここで吐き出させてやりたいという
暫く沈黙が続いた。その沈黙が、ワンルームの閉じられた空間の中で重力を持ち、いよいよ俺が耐えられなくなって、ごめん、やっぱいい、と口を開きかけたそのとき「俺んちの庭に、いち部分だけ芝になってるところあったの覚えてる?」と、杉本が唐突に切り出した。
「え?…あ、うん」
覚えてるも何も、荷物を運ぶ際に今日も見たばかりの杉本んちの母屋の方、他の部分が砂利であるのに対し、恐らくリビングから外へ出られるようになっているガラス戸の前の部分だけが緑の芝になっていたのを頭に思い浮かべた。家族でバーベキューが出来そうなくらいの十分な広さがある。
「あそこさ、昔は他の部分と同じ砂利だったんだって。でも、姉ちゃんがまだ小さくて、俺がお母さんのお腹の中にいるときに、親父が職人さんに芝にしてくれるよう頼んだんだってさ」シャーペンを手に持って、問題を解き始める。「俺と姉ちゃんが裸足で遊べるように」
…呼吸をするのもはばかれる。そんな、何か特別な話をされているような気がした。質問の答えにはなっていない。でもなっている。そんな不思議な感覚に包まれていた。何より、杉本の口から初めて『お母さん』という言葉が出たことに、俺は胸がつまりそうになっていた。
「はい、出来た」
杉本が、パシッとシャーペンをテーブルに置いて立ち上がった。そして「なんか飲むもん、あったっけ?」と冷蔵庫に向かう。
「あ、うん。中の麦茶、飲んでいいよ」
俺は答えながら、杉本が問題を解いたノートに目を移した。
ちゃんと答えだけじゃなく、途中の式も書いてある。
杉本の字は、案外、綺麗だ。
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