第21話

 やってしまった…。

 俺は、驚いた顔をして俺の顔を見ている杉本の視線を浴びながら思った。そりゃ驚くよな。突然、一緒に暮らそうなんて。

 でも、後悔は無い。さっき、外で見かけた義理のお母さんの顔が目に浮かぶ。

 あの人には任せておけない。お姉さんが去った今、この家に杉本を1人残しておくことなんてできない。俺はまたしても捨て犬を拾ってしまう少年のような気持ちになっている。

 俺は、ぐっ、と顔に力を込めると、困ったように目をうろつかせ始めた杉本に向かって畳み掛けた。

「杉本は、これからは俺と一緒にご飯を食べて、一緒の部屋で寝て、一緒に学校へ行って、一緒の家に帰る。もちろん、お姉さんが家に帰ってくるときはこっちに来ればいい。どう?」

 両肩を掴んで、しっかりと視線を捉えて、説き伏せるように言った。

 杉本は戸惑いの表情を浮かべながらまだ黙ったままだ。

 頼む、何か言ってくれ!でないと、俺の心臓がもたない!

「家賃とか…上條の親が払ってんじゃん」

 杉本はやっと口を開いたかと思うと、いきなり現実的な話を始めた。

「そんなの俺、1人で住んでたってかかるんだからいいんだよ」

 なんとか理由をこじつける。

 杉本はじっと俺の目を見つめると「でも…いいの?」心がこちらに傾きかけたのを素早く察知した俺は、ここぞとばかりに力強く頷いた。


 引っ越しの日取りは、丁度、次の週、平日ながら高校の創立記念日で学校が休みになる火曜日に決まった。

 俺は杉本の気が変わらない内に早くうちに連れて行きたかったんだけど、荷物の運搬をしているところを父親に見られたくないと杉本が言うので、お父さんが仕事に行っている平日の昼間に、さっと運んでしまうことになった。

 お義母さんは大丈夫なのか、と訊くと「あの人は俺のすることには無関心だから大丈夫だよ」とこっちも大して関心はないといった風に答えた。

 荷物はさほど多くない。とりあえず着替えと学校用品とあと持っていきたい小物類だけ持っていき、必要なものはその都度、取りに来ればいいということになった。

 これは賭けだけど、さすがに家を出たからといって部屋の物を処分されたり、学校関係の料金の引き落としを差し止められたりすることはないだろうという勝手な見通しを2人で立てた。

 あと、自分の使う食器と、布団は持ってきてくれと頼んだ。1階の和室の押し入れの中に、母屋にお客さんが泊まるとき用の布団が仕舞ってあるというので、それを持って行こう、と。

 ここは肝心なところだ。同じベッドで寝て毎夜の様に変な気分になりたくはない。

 そして布団以外のそれらを、引越し前の土日に2人で組み立てたダンボールに入れておいた。

 ダンボールの出所はもちろんスーパーだ。お店の人に許可を貰い、レジ横に立てかけてあるのをいくつか貰ってきた。もう俺は将来スーパーで働こうかと思うくらい、スーパーに絶大なる信頼を寄せている。食品の名前が腹に印字されたダンボール箱を、底が抜けないようにガムテープで補強して玄関に積んでおいた。

 そして決行の日はやってきた。


「1回で運ぶのは無理だな」

 午前中の内に杉本んちにやって来た俺は、廊下で荷物の山を眺めている杉本を、玄関の三和土から見上げながら呟いた。

 持っていく荷物は、ダンボールが3箱と、布団が一式。

 1人が1度に持てる量はダンボール1箱が限界だから、2往復は必要だ。しかも学用品と食器が結構重いので、アパートまでは1往復するだけでもキツそうだ。

「台車が、あればな…」

 俺はまたスーパーを頭によぎらせるが「あ、そうだ」と杉本がサンダルを引っ掛けて外に飛び出すと、家の敷地内の駐輪場から自転車を押して戻ってきた。

「これに載せて運べばよくね?」

「お、いいね。でも、これ杉本のなの?」

「知らね。鍵かかってないやつ、適当に持ってきた」

 おい、いいのかよ、と心配になるが、現実問題として荷物の運搬はしなくてはいけないので、どなたのものかは存じませんが、お借りすることにした。

 自転車の荷台にダンボール箱を2つ積んで、布団をひとまとめにする為に買ってきたビニール紐でぐるぐる巻に固定したんだけど、動いてたら落っこちそうな気がしたので、1人が自転車を押して1人が荷物を支えるという方法で運ぶことにした。


「ななこさんに会っておきたい。家、空けることも言っておかないとだし」

 杉本がそういうので、正門のところに荷物をくくりつけた自転車を置いて、母屋へ向かった。

 俺は挨拶した方がいいのだろうかと一瞬迷ったけど、真咲くんを僕に下さい、でもあるまいし何を言って良いのかわからず、少し離れたところで杉本が母屋の呼び鈴を鳴らすのを見ていた。

 本当はそっちが自分の家であるのに、呼び鈴を押して入るんだな…と、ぼんやり眺めながら思う。

 少しして玄関の扉が開くと、この前お姉さんの見送りで見かけた家政婦さんの1人が顔を出し、杉本と何やら話し始めた。途中で俺の方を指差して家政婦さんが俺の方を見やる。そして杉本は、家政婦さんに手を振ると俺の方へ戻って来た。

 割とあっさりとした別れに少し違和感を覚えた俺は杉本に訪ねた。

「ななこさん、何て?」

「あの人は、ななこさんじゃないよ」

「え?」

「今、買い物、行ってるんだって。だから言伝て頼んだ」

 そっか…残念だったな。でも一生、会えないわけじゃないし。

「あ、そうだ。あれ、出して」

 俺は思い出して「は?」と、きょとん、とする杉本の後ろポケットから財布を抜き取ると、中からカードというカードを全部引き抜いて、母屋の方へ走ると玄関脇にあった新聞受けの中に放り込んだ。

「は?!何やってんの、おまえ?」

「大丈夫。杉本1人増えても、大して生活費、変わらないし」

 これは、一緒に住むって決めたときから考えていたことだ。杉本は、高価な物を与えることが愛情だとか友情だとか思っているフシがある。それは違う、とわかってもらうには、これが1番手っ取り早い。

「行くよ」

 俺は呆然としてまだ母屋の方を見ている杉本の背中を押した。


 その時、正門の方から、プッと車のクラクションを鳴らす音が聞こえた。

「あっ」

 そっちを見た杉本が慌てたように走り出す。遅れて俺がそっちを見ると、門に入ろうとしている車を、俺たちの荷物運搬用自転車が邪魔をして入れなくしている光景が見えた。杉本が急いで駆け寄って自転車をどけようとする。でも後ろにダンボールが2箱も載っている自転車を1人で動かすのはなかなか至難の業で、後からかけつけた俺が一緒になってなんとか門の脇に自転車を移動させた。

 やっと門に入れたベンツが、荷物を載せた自転車を支えている俺たち2人の前で止まると、目の前でスーと運転席側のパワーウインドウが下がっていき、中から50手前といった感じの男性が「何をしている」と声をかけてきた。

 …絶対、杉本のお父さんじゃん。

 まるで、明らかにそれだとわかるものを「これ、なんだと思う?」と問われたのかと思うくらい、あまりにも杉本にそっくりな顔が車の中から俺たち2人、いや、主に杉本の方に視線を向けていた。もちろん肌は年相応に年輪を重ねているし、髪はだいぶ寂しくなっているのを無理やりジェルで撫でつけてはあるけれど、大きくてくっきりとした目がいつも俺が見ている杉本のそれとおんなじだった。ただし、おそらく人生経験の差だろう、目尻に刻まれた深い笑いジワとは裏腹に、眼光の鋭さというか、目の奥に宿る光の様なものが妙な迫力を放っている。

 ちらりと横を見ると、杉本は完全にお父さんから目を逸らし、その表情には微かな怯えさえ見て取れた。

 蛇に睨まれた蛙。そんな言葉が頭をよぎる。

 俺は、何も答えられない杉本に代わって「あの!」と勇気を振り絞って杉本のお父さんに向かって声をかけた。

 その声を受けたお父さんが、やっと俺の方に目を向ける。

 俺はその眼力に負けないように、ぐっと顔を引き締めると「杉…真咲くんは、今日から僕のうちで暮らしてもらおうと思ってます。でも、進学に関する援助ですとか、真咲くんが自立するまでの扶養はこれまで通りお願いしたいんです」と、きっぱり言い切ってやった。駄目とは言わせない。だって、今までと一緒だろ。追い出したのはそっちだし。住むところがここから俺んちに代わるだけだ。

 杉本のお父さんは俺から目を逸らしてフロントガラスの方に目を向けると、少し唇を尖らせた。

 …この癖は、知っている。

 今、この人は頭の中で何か計算をしている。

「でも、キミのご両親にご迷惑だろう」

 杉本のお父さんが言った。

「大丈夫です。家の事情で僕は1人暮らしをしているので。両親の許可は取ってあります」

 嘘をついた。許可なんて取るわけが無い。そもそもうちだってそんな信頼関係なんか無い。

 杉本のお父さんはまた少し何か考えるような仕草をすると「いつでも帰ってきなさい」と言い置いて、窓を閉めながら車を発進させた。

 は?と俺はなんだかカチンときて車を追いかけようと足を踏み出そうとしたところで「上條!」杉本に呼び止められた。「いいから。行こ」


 2人で自転車を押しながら、黙って歩いた。

 杉本のお父さんに、俺たちがしようとしていることを子どもの戯言みたいに扱われたような気がして俺はイライラしていた。気が済んだら帰って来いって?杉本が止めなければ、何を言っていたかはわからないけど、とにかく何か言ってやりたかった。でも当の本人である杉本がなんの反応も示さないので俺のイライラも少しずつ収まっていく。

 代わりにそのあまりの反応の無さに俺はなんだか、だんだん不安な気持ちになっていった。

 杉本は今、何を感じ何を思っているんだろう…。

 後ろで荷物を支えている杉本をチラッと振り返り見ると、杉本は下を向きながら両手でダンボールを支え、息を、はあ、はあ、と切らしながら「カード無くてもスマホでも買い物できるんだけどね」と言った。

 あ、そんなこと考えてたの…ていうか、おい!そこ、盲点だったっつーの!

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