第12話
俺の部屋にあるローテーブルの上に、俺の数学の教科書とノートが拡げられている。向き合っているのは、あぐらをかいた姿勢でシャーペンを左手に持った杉本。
今日、授業で習った三角比についての練習問題で、最後の1問が終わるまでに終業のチャイムが鳴ってしまったため、やり残したままだった1番難解な問題を杉本に解いてもらっている。
俺はその様子を横から片肘つきながら眺めていた。
杉本は、ペラッと教科書を1ページ前に戻すと単元の最初から読み直して内容を確認しているようだ。あれ?もしかして今日の授業、聴いてませんでした?
とりあえず杉本が教科書を読み終えるのを待つ。
待つ間、丁度、俺の目の前にあった黄色い髪を眺めていた。
あ。レモンだ。
レモンの色。
うん、しっくりきた。
なんかシュワシュワしている杉本のイメージにぴったりだ。いや、レモンはシュワシュワしていない。シュワシュワ系の飲み物にレモン味が多いってだけだ。大体シュワシュワしてる杉本って何だ?
なんか混乱してきたところで、思わずそっと、目の前で揺れている杉本の髪の先に自分の指を触れさせた。
「えっ?」
軽く触れただけのつもりだったのに、杉本が敏感に反応して顔をあげたので、慌てて手を引っ込めた。
「あ、いや、どうやったらこんな色になるのかなと思って」
苦しい言い訳。
「あー」と杉本が自分の前髪を引っ張って自分の視界に入るところまで持っていくと「脱きっぱにしてるだけだよ。色はなんも入れてない」と言ってまた教科書に視線を戻した。
黒い髪の色を脱いていくとこんな綺麗な黄色になるのか、と不思議な気分になる。
とりあえず杉本が、俺が髪に触れたことをあんまり気にしていないことにホッとした。
変に意識してまたこの前の様になりたくはない。この前の様にというのは要するに…はい、自主規制。
「こうじゃね?」
杉本がいきなり解答をノートに書き出した。なんか正解の様な気はするけど、あいだがまったく無い。
「だから、何がどうなってこうなるのかを教えて欲しいんだよ」
「え〜、そっちの方がムズいんですけど〜」
不満を漏らす俺に不満で応える。完全に教えてもらう相手を間違えたと後悔したけど、杉本は意外にも再び教科書に視線を落とすと、真面目な顔をしてもう一度最初から問題の考察を始めた。
唇が尖っている。うっかりこの前のことを思い出す。この唇にキスされて、キス仕返した。
…今、俺が杉本の顔に自分の顔を近づけたらどうなるだろう。この前の続きが始まるのだろうか。それともあれは冗談だったと、いつもみたいにヘラヘラしてでもやっぱり何でもないことのようにキスを…
「あ、わかった!」
ひゃっ!!
まるで俺の邪な心を見透かされたかの様なタイミングで閃かれて思い切りビビったけど辛うじて平静を保った。
「ここさ、この三角形を一回、反転させてさ」
「あ…あ〜なるほどね…」
丁寧にノートに反転させた三角形を描きながら解説してくれるけど…ごめん、動揺しすぎて半分くらいしか頭に入ってこない。顔が熱くなっていくのを感じて、おでこ痒いんだよね〜を装いながら手で顔を隠した。
「なぁ、一緒に飯、食いに行かね?奢るから」
一通り勉強を終え、いいタイミングで杉本が提案してきた。
「いや、いい」
即座に断る。またこの前の焼肉店みたいな高級な店に連れて行かれたらたまったもんじゃない。
「え〜〜」
杉本が不服そうに声を出した。
そして「上條は1人で飯食うの平気な方?誰かと一緒に食いたいな〜とか思わない?」と訊くので、少し考えたけど「思わない」と答えた。平気もなにも1人で暮らしてるんだから1人で食べるしかないし、そこに何かしらの感情が入ることはない。俺ってドライだろうか。
「ふ〜ん」
何か腑に落ちないといった顔を杉本がするので思わず「杉本はご飯のときも家族に入れてもらえないの?」と、訊いた。
瞬間、杉本の顔から表情が消えた。俺を見つめる目が無機質な鏡のようになって、ただ俺の顔を反射させていた。
俺は何か悪いことをしてしまったような気持ちになって、慌ててその場を取り繕おうと言葉を探した。
「俺んちのこと、なんか聞いたんだね」
夢から覚めたように杉本の声が耳に響いてハッとして杉本を見ると、杉本は静かに笑っていた。
「あ…ごめん、相田さんに…」
焦りからつい名前を出してしまう。相田さんとの約束、やぶっちゃったけど、もう遅い。ごめん!
「あー、なるほど」
そういうことね、と杉本は呟き、そのまま後ろに倒れると両手を頭の下に敷いてフローリングに仰向けになった。そして、ふー、と息を吐く。
「どういう風に聞いたか知らないけどさ、多分、上條が思ってるような酷い状況じゃないよ」
「え?」
「家族と別々に暮らしてはいるけど、同じ敷地内だし。俺んちおんなじ敷地内に2軒家が建ってるんだよね。母屋の他にもう1軒あってさ、昔、親父の弟夫婦が住んでたんだけど、別んとこに家建ててそっちに引っ越したから空き家になってて、そこに俺が入った感じ」
え…なら…。
「なら、じゃあ尚更ご飯は一緒でいいんじゃないの?」
「んー、なんか、家政婦さんがうちに来て色々やってくれる。最近は友だち来ること多いから、夜ごはんは要らないって言ってあるんだけどね」
直接的な言い方を避けて話す言葉からは何の感情も読み取れない。家政婦さん。家2軒。俺にはまるで別次元の話だ。
「金も使い放題だしさ。あ、あと2コ上の姉ちゃんがいてさ」
「お姉さん?」
「うん。妹とは血が繋がってないけど、姉ちゃんは正真正銘、俺の姉ちゃん」
なんてこった。そんな話は相田さんからは聞かされていない。
「姉ちゃんがすごい心配してくれて、たまに様子見に来てくれてた。でも中学になって俺が友だち連れ込むようになったら、あんま来なくなったな〜」
杉本はそこで初めて、少し寂しそうな顔を見せた。
俺は杉本の話を聞き終わっても、杉本の言う「酷い状態じゃない」とは思えなかった。すぐそばに家族の団らんがあるのに、そこに自分だけ入れてもらえないなんて悲しすぎるじゃないか。
俺が何も言えずに黙っていることに居心地の悪さを感じたのか、杉本はムクッと起き上がると「じゃ、どうする、ご飯?なんか買ってくる?」と無理やり明るい声を出した。
多分、俺を困らせたくなくてこの話をするのを避けていたんだろう、と思う。
「もう解散でいいんじゃない?」
俺はなるべく冷たい言い方にならないように気をつけながら、静かな声でそう言った。悪いけど杉本の家族の代わりにはなれない。それは俺の役目じゃない。そこは線を引くべきだ。
杉本は俺が作った空気を再び混ぜっ返すように大きな声を出して「え〜、上條がまた自分から巻き込まれに来たくせに〜」と、ぶーと頬を膨らませた。ん?なんで、そうなる?
「今日はおまえからカラオケ行くの面倒くさいとか言って来たんだろ」
「違うよ、その前だよ。学校で俺が帰ろうとしたとき」
ああ、あのとき。でもあれはさ…
「あれは杉本が指導室さぼろうとするから」
「『俺を選べ!』って顔してたのにな」
は?!こいつは何を言っているんだ?
「そんな顔してねーし!!!」
「え〜、そうなの?」
思い切り否定する俺に目を細めて疑惑の視線を送る杉本。その顔、やめろ!
「ま、いーや。じゃ、俺、帰るわ」
杉本は、自分の学生鞄を肩にかけると立ち上り、玄関に向かって歩きかけた。
歩きかけたところで、くるっと振り向くと腰をかがめて、俺に避ける隙も与えないまま、ちゅっと唇を俺の唇に押し当てた。
「んじゃね」
固まってしまった俺の視界の中を、手をひらひら振りながら玄関へと消えていく。
扉が開く音がして、ガチャンと閉まった音がした、と同時に、俺は固まった姿勢のまま真横に倒れ込んだ。ゴッと頭が床に当たる音がしたけど、さっきの衝撃に比べたらなんでもない。
なんなんなん、なんだよ、あいつ?!絶っ対楽しんでる!絶っ対楽しんでる!
「くっそ〜…」
心臓が後からついてきて心拍数をあげていく。冷たいフローリングが程よく火照った顔を冷やしてくれていた。
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