終幕 ✴︎ 春待ちの魂契り

65/「婚約いたしました」

「私、このたび婚約いたしました」

「えっ!? お、おめでとう!」


 ファーミーンが唐突に投げ込んだ小石が、薬屋に小さな波紋を生んだ。


 アリヤはすぐさま祝いの言葉を述べたものの、当人の表情はいささか渋い。その理由を知っているらしいタレイラも同じくだ。

 セディッカはそもそも話題自体にぴんと来ない顔で、とりあえず全員分のお茶を淹れている。


「ど、どしたの、なんか嫌そうだけど……ちなみに相手は誰?」

「憲兵団長の甥御さんよ。会ったこともないから、どんな人かは知らないけど。はぁ……」

「今日び親が全部決めちゃうとか前時代的だよね~」


 さすがに大店おおだなのお嬢様ともなると、一般人にはない苦労があるらしい。

 聞くところ彼女にきょうだいはいないので、もともと家業を継ぐことは既定路線。なので嫁入りではなく婿取りをするのだと以前から言っていた。

 だからこそ、自分の目で「これだ」という相手を見つけたいのだ、とも。


 アリヤも同じ乙女として、結婚というのは人生最大の節目イベントだと認識している。もし不本意な形で迎えることになったら……と思うとファーミーンの気持ちは痛いほど理解できた。

 しかし、こちらにできることといえば、そのお相手が彼女にとって良い人であることを祈るくらいだ。


「そういうわけだから、今日は自棄食いさせていただくわね?」

「わかった。ちょっと火加減見てくるね」


 最近はお茶請けのお菓子の作り方も教わっている。

 じつはそんなに特別なものばかりではなく、隠し味に薬草を使っていたり、外国の調理法レシピを参考にしているらしい。ちょっとの工夫でずいぶん変わるんだなぁ、と感心してしまう。


 何にせよ、少しでも彼女の気が晴れるといいのだけれど。



 さて、アリヤが台所に去ったあと、薬屋ではこんな会話が繰り広げられた。


「婚約って何のためにするんだ? つがいになるのに、わざわざ契約を挟む必要があるのか?」

「それはいろいろと都合が。たとえば私はまだ学生だから、卒業まで待っていただかないと」

「あとザーイバじゃ、結婚できるのは十七歳からだよ〜」

「社会的な制約が多いんだな」

「そう。で、条件をすべて達成するまでの間に心変わりされちゃ困るから、予め周囲にお知らせしておくんです。逃げられないようにね」

「……その発想は呪術的だ」


 ふむふむ、と新たに手に入れた人間社会の情報を咀嚼するセディッカを、魔女はおっとり微笑んで見守っている。

 このごろは彼もタレイラたちと雑談ができるようになった。互いの常識が違いすぎるため、質疑応答に終始する場合がほとんどだが、以前を思えば目覚ましい進歩だろう。


 それに、ただ話せるようになっただけではない。


「にしてもセディッカくんがじつはコウモリだなんてねぇ〜、未だにわけわからん」

「目の前で変身してみせただろう」

「こういうことは頭ではわかっても、飲み込むのに時間がかかるんですの。……ひとつ納得もしましたけど」

「?」


 少しずつ、変わってきている。

 セディッカだけではなく色んなことが。季節の移り変わりと一緒に、去っていったものもあれば、新しくやってくることもある。

 良いこともそうでないことも、因果の糸に結ばれているのだ。


 話し声は台所にも聞こえる。みんなが楽しそうならアリヤも嬉しい。

 タレイラたちとセディッカが話しているのを見ると、ほんのちょっとだけもどかしいような気がするけれど。――そのたび、自分にも人並みに嫉妬心というものがあるんだなぁ、なんて呑気に思う。


「婚約、かぁ……」


 砂時計をひっくり返しながら呟いた。

 昔はアリヤくらいの歳にはもう結婚していたというが、とても想像がつかない。それくらい遠い未来に思っていた事象が、同年齢の友人に起こっているのは、なんだか不思議だ。


 アリヤの好きな相手はコウモリで、魔女の使い魔だから歳のとり方も違う。もし彼と添い遂げられたとしても、人間社会の法律ルールや慣習が想定しているような一般的な婚姻関係とは、まるで違うものになるのだろう。

 ……そもそもまだ恋人ですらないが。


 早いもので、アリヤが魔女見習いになってから二度目の冬を迎えていた。


 セディッカへの恋心は今も変わらない。告白はしていないけれど、最近は心地よい距離感を保っている。

 今なら想いを告げても、一方的に傷つける恐れはないだろう。


「……言えるといいなぁ。よいしょっと」


 ちょうどお菓子がふっくらした鳶色に焼き上がった。熱いうちに深めの皿に移して蜂蜜入りのシロップを注ぐと、じゅわわ、と心地よい音を立てて生地に染み込んでいく。

 まだ練習中だが、なかなか美味しそうにできた。きっとこれならファーミーンの慰めになれるだろう。




 修行は終わっていない。知識はもとより経験もたくさん積まなければならないから、アリヤが真に一人前になるのは何年も先だ。

 その間、きっと穏やかな日々ばかりではないだろう。何しろ自分たちには不運がついて回る宿命なのだから。


 だからいつもの帰り道で、アリヤはセディッカにこう尋ねた。


「ねえセディくん、痛み止めってあとどれくらい残ってる? 足りなくなったら教えてね」

「いや、大丈夫だ。ほとんど使ってないから」

「えっ」


 想定外の返答に目を丸くする。心の痛み止めを彼にあげたのは最初の秋だから、もう一年以上になるのに……使ってない?

 思わず「そんなに出来が悪かった……?」と青い顔をしたアリヤに、セディッカは少し慌てたように補足する。


「そうじゃなくて、あんまり使いたくないんだ」

「ど、どうして?」

「……初めてアリヤが作った薬だから。もしかしたら、いつか何かの呪術に使うかもしれない」

「うーん……そういうのってよくあるの?」

「稀には」


 稀なんだ。


「それに……痛みだって俺の心の一部だから、なるべく、ちゃんと感じたいんだ。遠ざけるだけじゃ、成長できないから」

「んー……そっ、かぁ……。あの、でも、無理はしないでね?」

「それはこっちの科白だよ。……あ、それもある。俺が苦しまなくなったら、おまえはますます無茶しそうだからな」

「あ、あはは……」


 否定できなくて苦笑してしまう。そんなアリヤをセディッカは呆れたふうに見つめている。

 今はこんな会話ができるようになった。


 幸せだと思う。どんな形で反作用が噴出するかと思うと、少し怖くなるくらい。

 これ以上を求めるのは悪いことだから、「いい子ちゃん」は告白をしなかった。ちっぽけなアリヤの世界を変えたとき、何が起きても自分では責任を取り切れなくて、きっと誰かに背負わせてしまうから。

 けれど独り善がりの優しさでは、一番護りたいひとを救えない。


 セディッカがアリヤのために苦しんでくれるなら、アリヤも、セディッカのために苦しみたい。


「あの、ね、セディくん……わたし……」



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