60/「間に合わせるよ」

 もうすっかり夕方で、涼やかな風がアリヤたちの間を吹き抜けた。誘われるようにして視線を前に向ければ、赤銅色に煌めくザーイバの街並みが、端の壁まで一望できる。

 ちょうど砂漠の彼方、遥か遠くにある灰色の山の中へと陽が傾き始めていた。


 なかなか見事な眺望に、ついアリヤはぼうっと見入ってしまう。

 気づけば蒼碧の瞳がこちらを射すくめていた。はっとした瞬間、胸が高鳴ってしまったけれど、彼に聞こえてしまったろうか。


「えっと……、月麭ザルミ、食べよっか」


 小刀ナイフは持ってこなかったので、手で半分に千切った。交換の風習があるため、ひとつひとつは小さくて、食欲は一般的と自負するアリヤでも一度に二、三個は軽いくらいだ。


 肉入りは香辛料スパイスが効いている。羊肉と一緒に煮込まれた何種類かの豆がほくほくした食感で、少しもっちりした生地と相性抜群だ。

 セディッカは辛味が得意でないらしく、小さいから一口で食べきりはしたものの、舌をはみ出させて痛そうにしていた。その絵面はちょっとかわいい。


 あとはアリヤとムルが作った果物入りの甘いものが三種類もある。

 まず蜜椰子ドゥマカ。かなり甘くてねっとりした舌ざわりの果実に、食感の遊びアクセントとして堅果ナッツを入れた、歯応えが楽しい一品。

 次は丸甘瓜チプリシュ。一緒に卵入りの乳脂クリームも包んでいて、なめらかで優しい味わい。

 最後は水林檎サラハン。これも少しだけ香辛料が入っているが、蜂蜜の風味でだいぶ和らげられている。水林檎自体もしゃくしゃくした歯応えが残っていてかなり美味しい。


 なんだかんだで四種類ともぺろりと食べてしまった。肉入り以外は半分にしなくてもよかったかもしれない。

 セディッカも満足そうで、アリヤとしてはそれが何より嬉しかった。


「……うん。わかる」

「え、何が?」

「言ってたろ、祈望祝ヤーザラーン以外でも食べたいとか。……これが年に一度だけっていうのは、たしかに惜しい」

「あぁうんそれね! そうだよねっ」


 食い気味に首肯するアリヤを見て、セディッカがフッと小さく息を漏らした。

 ――今、セディくん、笑った?


 ほんの一瞬で、しかも陽が落ちかけていてよく見えなかった。けれど彼の魔力が安らいだのはたしかに感じ取れた。

 胸がきゅうっと苦しくなって、両手をきつく握り締める。


 もっと彼の笑顔が欲しい。もう一度見たい。今度は明るい場所で、もっと近くではっきりと。

 それだけがアリヤの望みだ。他には何もなくていい。

 どうしようもなく膨れ上がったそんな想いが、思わず口をついて出る。言葉で覆って形を変えても、結局はうまく繕えないままの、ともすれば幼いほどの純情が。


「また作るよ! セディくんが、食べたいときに……、わ、わたしもほら、練習したいから……だから、来年まで待たなくてもいいよ」

「……うん」


 頷いてもらえるだけで、心が優しい熱でいっぱいになる。

 もう魔力の紐は繋いでいない。けれど、こんなに周りに歓喜の光を散らしていては、アリヤの好意なんて丸わかりだろう。

 もうちっとも隠せていない。


 セディッカの周りも、ふわふわと蒼碧の光が瞬いている。戸惑いや驚きに揺れている。

 けれど、嫌な感じは少しもしない。


 だから――いいんだ、これで。

 どんな愛の告白よりも雄弁な輝きが、むき出しの心を眩く照らしている。だったらいっそ総てが伝わってしまえばいい。

 二つに割った月麭のように、幸せも半分こにして分け合いたい。



 しばらくそうして街並みを眺めていた。夕陽に照らされた日干し煉瓦が焚き火のように輝いて、その隙間をうごめく人々を優しく包む。

 そもそも月を見るのが主旨の祭事だ。反対側から昇ってきた満月を見るために、二人は一旦座る場所を移動した。

 おっかなびっくり屋根の上を歩くアリヤに、セディッカは少し笑いを堪えるような声音で言う。


「大丈夫だよ。もしおまえが落ちたら、地面にぶつかる前にちゃんと拾ってやる」

「ほんと? 間に合う?」

「間に合わせるよ」


 半笑いなのに妙に力強い、頼もしい言葉。

 だってアリヤは知っている。いつかの路上でも、ナバトの洞窟でも、いつだってセディッカはちゃんと危機に駆けつけて助けてくれた。

 小さなコウモリの身体でも臆せず危険と立ち向かう、彼の勇気を知っている。


 それにしても本当に大きな月だ。頭上からは柔らかな光が降り注いでいる。

 足の下からは、かすかに僧侶たちの歌うような祈祷の声が聞こえてきた。神へ捧げる感謝の舞が始まったらしい。


 昼間は暑いほどなのに、夜になると肌寒い。もちろんここで生まれ育ったアリヤはそれくらい承知済みなので、ちゃんと持ってきていた上着を羽織る。

 その裾を掴んできもち丸くなっていると、ふとセディッカが言った。


「月麭の礼ってわけじゃないんだが」


 アリヤが彼を伺うと、セディッカの視線は月ではなく手元に注がれていた。空っぽの自分の手の中を見ているわけもないので、たぶん、こちらから顔を隠すために。

 どのみちもう月光だけでは表情なんてよく伺えないのに、と思うのは、アリヤが夜目のきかない人間だからだろうか。


「今度、薬草の採集地を案内する。おまえの親が心配するとまずいから、とりあえず日帰りできる範囲から……」

「うん。あとで学校の行事日程スケジュールを教えるね、平日は休めないから」

「そうだな。……それで、その、……わざわざムルはついてこないから、行くとしたらまた俺と二人になるけど……いいか?」

「……うん! 平気! お気遣いなく!」


 なるべく誤解がないように意識してきっぱり返答したが、逆に不自然になった気もしなくもない。いや、本当にあまり気にしすぎないでいてくれたほうがアリヤとしても楽なのだ。

 セディッカはちょっと気圧されたふうながら、それならいいんだ、と呟くように言う。


 落っこちてきそうな月の下で、二人は今までにないほど穏やかな時を過ごした。



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