59/「黙ってじっとしててくれ」
思わぬ一言にアリヤが勢いよく振り向くと、天幕の手前に買い物かごを提げたタレイラが立って、にやにや笑いながらこちらを見ていた。
「え、あ、えと……ちがっ、その……っ」
「違う。単に魔女の言いつけだ」
耳まで真っ赤になってわたわたするアリヤとは対照的に、セディッカは平生どおり、ともすれば普段以上に冷静な声と真顔で淡々と返す。
まったく意識されていないのも、それはそれで切ない……といつものアリヤなら思ったろう。
でも、今は違った。
手の代わりに繋いでいる魔力の紐が、一瞬ぎゅっと強く引かれて、セディッカの側で強張っていたのがわかってしまった。
思わず彼の顔を見てしまうけれど、やはり表情には少しも動揺を滲ませていない。ただアリヤの視線には気づいたようで、蒼碧の眼がこちらを向いて、目が合った瞬間かすかに揺れた。
ふいに、あたりの喧騒が遠のく。
小さな鼓動が聞こえる。泣きじゃくるような忙しない胸の音が――なぜなら魔力は魂から湧き出ていて、それは心臓の中にある。
『……アリヤ』
『セディ、くん』
かすれた声でそれぞれが呟くのは互いの名前。
口を開いていなくても、無意識の中で、自分たちの命が人知れず囁き合っている――……。
「おーい!」
はっとした瞬間、辺りがふたたびざわめきで満たされた。しばしの
はっとすると、顔の前――アリヤとセディッカの間に差し出す形で、ぱたぱたと手が振られていた。
「どーしたの二人とも、見つめ合ったまま固まっちゃってぇ」
「タレイラが揶揄うからでしょう? 私は言うの我慢してたのに……ふふっ」
「あっはっは、ごめ〜ん」
友人たちの和やかな笑い声をよそに、アリヤの胸はばくばく鳴っている。
――今の、何?
もう魔力の結び目からは何も感じない。アリヤの側からはまだ何かを働きかけたりなんてできないから、セディッカが
けれどさっき、確かに、今まで聞いたことがないくらい優しい声で、アリヤを呼んでいた。アリヤも自分でも恥ずかしくなるくらい甘えた調子で応えていた。
それを聞いてしまったこと、恐らく彼にも聞かれたこと、両方があまりに衝撃的で言葉にならない。
「はい、アリヤにもあげる」
「えっあっ、何!?」
「……ほんとにどったの? ただの月麭だよ、羊肉と豆入り」
「あ……ありがと……。これ、わたしと魔女さんの……」
まだやんわり
普通はそれぞれが用意するので、家ごとに少しずつ具や味が違う。こうしてタレイラが買ってきたように、今は屋台で売られるようになったので、わざわざ作らなくなった人もいるけれど。
肉入りの月麭は焼き立てらしく、ほかほかの湯気に混じった芳ばしい
これは温かいうちに食べたい。今すぐ。
ちょうどお腹が空いてきたところだったので、急にむくむくと食欲が沸いてきたが、おかげでアリヤは落ち着くことができた。
さっきの謎の現象は、たぶん今はあまり深く考えないほうがいい。色んな意味で。
今日はなるべく普通に祈望祝を楽しもう。そもそも、セディッカにお祭りを案内するのが魔女からの依頼なのだし。
「あ、あの、……セディくん」
「……、なんだ」
「その……セディくんはお肉って食べられる?」
「
意図を察したらしいセディッカが、ふいにあたりをきょろきょろと見回した。とはいえ、どこもかしこも人だらけだし、普段より多めに設置された
こんな日だから、立ち食いの人も少なくない。
「落ち着けそうな場所がないな……移動するか」
「あっ、うん、そうだね。でも空いてそうなところなんてあるかなぁ。
タレイラ、ファーミーン、またね」
「またねー」
行き先は決まっていないけれど、とりあえず友人たちとは一旦別れる。
しかし広場を出るどころか、ほんの数歩歩いたところでふいにセディッカが足を止めて、こちらを振り返って言った。
「今からちょっと抱えるけど騒ぐなよ」
「え?」
「二度言わせるな。……集中してないと後が面倒になるから、とにかく黙ってじっとしててくれ」
「う、うん……?」
なんだろうと思ったら、彼は言葉どおりアリヤを抱き上げて、地面を蹴った。ひょいっ、という効果音が聞こえそうなほど軽やかに。
急な展開にまたしても頭が真っ白になりつつも、とりあえず言いつけだけはちゃんと守ろうと必死で口を噤む。
飛ぶというより跳んで向かった先は広場の奥にある
あの蒼碧色のモザイクタイルがすぐ近くにある。
そして高い。屋根なんだから当たり前だが、うっかり足を滑らせたらと思うとぞっとする程度には地面が遠い。
だいたいこんな場所に勝手に登ってしまっていいものか。アリヤはふたたび困惑したが、落ち着いてみると自分たちは魔力を薄く伸ばした泡のようなものに包まれていた。
たぶんこれで隠されている。そうでなければ、跳躍した時点で注目の的だ。
「ここなら静かだし人も来ないだろ」
「そ、……それはそうだけど、いいのかなぁ……」
「……まずいか?」
「う……うーん、誰にも見られてないんだったら、あとは汚したりしなかったら大丈夫、かな」
「わかった、気をつけよう」
セディッカはちっとも怖くないようで、平然と縁に腰掛ける。
「……そっか。セディくんは飛べるから、これくらいの高さは慣れてるんだよね」
「人間は不便だよな。身体は重いし、頭を上にしないといけないし。……まあ、手足は使いやすいから一長一短か」
コウモリからすればそんな感じなのか。
少し不思議な気持ちになりつつも、アリヤも隣に座ってみる。足を投げ出す勇気はないから、縁より内側に下がってはいるけれど。
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