第八幕 ✴︎ 明る月夜の秘め言(ごと)

56/「胃袋から落とさないと」

 魂は、心臓の中にあるという。悲しみに胸を痛めたり、喜びに熱くなるのはそのためだ。

 アリヤにもらった薬を指先ですくって、ちょうどそのあたりに塗り込むと、すうっと爽やかな香りがした。

 所詮は経験の浅い見習いの作、まだ魔力の練り込みが甘いのはすぐわかる。だから薬効もそれほど高くはない。


 けれど、たしかにセディッカの魂の痛みは和らいだ。

 いや――違う。薬を使う前、これを受け取ったあの瞬間から、すでに苦痛は引き始めていた。


 ムルはこんなものを作りはしなかった。魔女には使い魔の悲痛がわからなかったからだ。

 魔神も無視をした。悪気があったというより、彼の性格上、根本的な解決にならない一時しのぎの優しさを好まないからだろう。

 アリヤが初めてセディッカを癒そうとしてくれた。


 静かになった心に、小さな声がこだましている。

 魂の奥底で誰かが囁いている。たぶん今までもずっとあって、自分自身の悲鳴にかき消されていたのだろう、意識よりも深いところにある本音。


 ――耳を傾けるべきじゃない。俺は、ムルのためだけに存在していればいいんだから。


 今度は呪詛がそれに蓋をする。アリヤの痛み止めはまだ、それを破るまでには達していない。

 遠からず来るその日までに、セディッカも強くならなくては。複雑すぎる人の心をちゃんと支配下に置いて、たとえ心の声を認めても、己の感情に振り回されることのないように。

 なるほど人は、こうして成長していくのか。



 ・・・✴︎



 教えるなどと大口を叩いたものの。

 調理法レシピを知っているからといって、上手に作れるわけではない。セディッカに食べてもらう以上は絶対に失敗したくないし、なるべく美味しいと思ってもらいたい。

 ちょっと不安になったアリヤが母に相談すると、


「あなた、あの男の子が好きなのね?」


 と悪戯っぽく微笑まれた。先日まで増血剤を毎日届けにきていた少年のことは、母もちゃんと覚えていたらしい。

 とくに隠す必要もないので、アリヤもえへへと照れ笑いした。


「もしかして魔女になりたいとか言い出したのも、彼の影響じゃないでしょうねえ」

「それは違うよ! 最初はセディくんのことは知らなかったし……むしろ最初からずーっと反対されてるんだよ」

「あらまぁ。それじゃあうんと美味しいのを作って胃袋から落とさないと」

「え、いや、そういうつもりは」


 なかったんだけど……と困惑するアリヤに、母はふふんと鼻を鳴らす。


「つもりがなくてもそうなるものよ。お母さんだって、町内会の炊き出しがきっかけでお父さんと結婚したんだから」

「炊き出し? え、お母さんたちお見合い結婚じゃなかったっけ?」

「お父さんね、私の作った炒肉飯シャグルップが忘れられないから紹介してくれって会長さんに頼み込んだらしいの。それでお見合いを組まれたわけ」

「へぇー……」

「あ、これ私は知らないことになってる話だから、お父さんには内緒よ?」


 たしかに、家政婦を雇うような家でなければ食事は毎日奥さんが作るもの。料理上手と結婚したいと思うのは当たり前かもしれない。

 しかしアリヤにとっての父は、ちょっと大人しくて真面目な人で、とても町内会長に直談判する姿は想像できない。が、たしかに母の炒肉飯はとても美味しい。


 ……まあ、何にしてもお菓子を上手に作れるようになるのは良いことだろう。アリヤ自身も食べられるわけだし。

 それでセディッカにも喜んでもらえるとしたら、やる価値は充分すぎるほどある。


 というわけで、母から美味しい月麭ザルミを作るコツを伝授してもらうことに。

 結論から言えば相談して大正解だった。というのも、生地は作ってから数回寝かせと手入れを繰り返す必要がある、ということをアリヤは失念していたからだ。

 危うく魔女に不完全な作り方を教えてしまうところだった。



 数日は一瞬で過ぎ去り、あっという間に祈望祝ヤーザラーンの日になる。アリヤは家で半分だけ仕込んできた月麭の生地を手に薬屋に向かった。

 道中のザーイバはいつもより人気が多くて賑やかだ。月見の祭事なのだから主は夜なのだけれど、みんな朝からそわそわしているし、広場ではもう露天商が敷布を広げて準備を進めていた。

 奉仕活動ボランティア団体なんかもすでに声を張って募金を呼びかけている。恵まれない人や孤児たちに愛の手を、との呼び声に思わず足を止めてしまったアリヤは、気づけば財布を開いていた。


 いやいや、募金は良いことだけれどあまり寄り道していてはいけない。生地は生ものだ。

 他の募金を求める人びとたちまで一斉にアリヤを見つめてきたが、これ以上引き留められるわけにはいかないので、慌てて彼らに背を向けた。


 そうしてなんとか薬屋に着けたが、すでにアリヤはぼろぼろになっていた。

 なんというか、……生地を落とさないように転ぶのって難しい。とりあえず肘と顎を犠牲にしてしまった。


 もちろんそんなアリヤを見て、魔女もセディッカも唖然とする。


「おはようございまーすっ」

「おはようござ……アリヤさん、大丈夫ですか?」

「何があった!?」

「ちょっと転んだだけだよ〜」


 それ自体はいつものことだし、そんなに心配しなくても。

 とアリヤ自身は思ったが、人一倍優しい彼らが傷だらけの少女を放っておくはずもなく、お菓子作りの前に二人がかりで手当てされる運びとなった。


「しみるぞ」

「あっ……いたた……!」

「ったく。……帰りに送るだけじゃ間に合わない気がしてきた」

「そうですね。それにしても……アリヤさん、最近何か善行をしましたか?」

「え、えと、……あ、ここに来る途中で募金を」

「それだ。二度とやるな」

「えぇぇ……、うん、わかった」


 アリヤが二、三度転んだくらいでどこかの誰かが助かるなら安いものだろうに。でも、とりあえずこの場は頷いておく。

 心配してくれる気持ちも尊重しなくては。


 それにセディッカが手ずから薬を塗ってくれるなんて、これはこれで役得な気がしてしまう。恋する乙女は今日も勝手に幸せなのでした。



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