55/「これが今のわたしの気持ち」
魔女の後押し、そして最後の材料。必要以上にすべてが揃っている。
アリヤは満を持して作業台の前に立った。
向かいにはムル。そして台所ではセディッカが、まだ理由を知らないものの魔女の指示でお湯を沸かしてくれている。
「ではウサギの角を砕きましょう。小さめですから丸ごと一本使ってしまって大丈夫です」
「はいっ」
しかしこの世に角のあるウサギがいるなんて、アリヤは寡聞にして知らなかった。コウモリの生態だってそうだし、世の中には、まだ見たことや聞いたことのないものがたくさんある。
一人前の魔女になるには、きっとそういう知識も山ほど必要だろう。ムルのように誰のどんな悩みにも寄り添える人になるためには。
指示どおりに手を動かす。一心不乱に作業している見習い少女を、戸口の陰からそっと使い魔が眺めているのも気付かないほど集中して。
必要な分量を計り、用意しておいた薬液に加えてよく混ぜてから、台所へ運ぶ。セディッカと入れ替わりに
沸いた湯に薬液の入った小鍋を浸ける。湯煎にかけながらさらにかき混ぜ続けると、少しずつ色が変わって、粘り気が出てきた。
魔女がもういいと言うまで練り上げたら、火から下ろして冷ます。人肌くらいになったら、底の浅くて平たい小さな瓶に詰め――……。
「完成です」
「やったー!」
歓声を上げるアリヤに、まだ物陰から見守っていたセディッカも少しホッとしたような表情だ。
ようやくそれに気づいた見習いは、笑顔のまま振り返る。
「あっ、ねえ、セディくん!」
「へ、……俺?」
「ええ、こちらにいらっしゃい、セディッカ」
魔女に呼ばれては一も二もなく、困惑しながら使い魔が歩いてくる。その表情にはまだアリヤに近づくことへの不安が滲んでいた。
だから、敢えて薬を手渡しした。
触ることを怖がらなくてもいいことを――少なくともアリヤはさっきのあれこれを気にしていないのだと、伝えるために。
少し細くて長い指に瓶を握らせながら、そういえばこの手も好きなんだよなぁ、と思う。コウモリのときはかわいい羽になって、人のときは薬を作る素敵な手だ。
「これは……?」
「心の痛み止め。わたしのせいで、セディくんには悲しい思いをたくさんさせちゃってるから」
ちなみにこれは塗り薬。飲み薬は難易度が高いそうなので、覚えるのはもっと上達してから。
「正しい方法じゃないかもしれないけど、他に思いつかなかったんだ。だから、とりあえず、これが今のわたしの気持ちです。
――受け取ってください」
セディッカは少し驚いたような表情で、手の中の薬瓶とアリヤの顔を交互に見た。何かを堪えるようにきゅっと結ばれた口の中には、どんな音を閉じ込めているのだろう。
いつか、それを聞かせてもらえるようになれるだろうか。
受け止めさせてほしい。痛みも悲しみも苦しい気持ちも、そうして同じだけ、アリヤからは喜びを分けてあげられたらいいのに。
しばらくしてから、小さな声がした。ありがとうと聞こえたのはアリヤの願望だったろうか。
いや、それなら隣の魔女がこんなに優しく微笑むことはないだろう。
やっと、一歩進めた気がした。
・・・・・+
「そういえば平日なのに、学校はどうしたんだ」
「え? ああ、
お客さんがいないので休憩を取り直していたら、久しぶりにセディッカとまともな会話ができた。それが地味にものすごーく嬉しいアリヤはもう我慢できずに目一杯ニコニコしてしまう。
一方セディッカは人間の文化に疎いようで、それって何だったっけ、と魔女に尋ねている。
祈望祝というのは月を愛でる祝祭だ。なんでも今月は一年で一番満月が大きく美しく見えるのだそうで、その日は
当日は
現在のような天文学が発達する以前は、月は天空神の眼だと信じられていた。夜もなお地上を見守ってくれる神への感謝を示すため、満月の夜に生け贄を捧げて、その周囲を一晩中踊ったそうだ。
時代が下るにつれて捧げられるものが人間から動物の肉や作物に代わり、最後には美味しい月麭になったらしい。踊りについては今でも寺院内で神官が続けているそうだが、一般人には公開されないのでアリヤも見たことはない。
だから現代の学生たちからすれば「一週間ばかり学校が短縮授業になって、一晩だけは多少の夜遊びも許されるお祭り」という認識だ。
「うちはずっと通常営業でしたから、月麭もずいぶん前に食べたきりですね」
「記憶にないけど……」
「ほら、昔近所に住んでらした方におすそ分けでいただいた、水林檎が入ったパイですよ」
「……ああ、あれか!」
セディッカの顔が珍しく明るくなった。笑ったわけではないが、いつもより眼をぱっちり開いているからか、ただでさえ美しい瞳がきらきらして見える。
思わず見入りそうになってしまったし、何よりセディッカのそんな表情が嬉しい。アリヤも一緒になってほっこりしながら「美味しかった?」と聞いてみた。
彼は少し照れくさそうに、小さく頷く。アリヤもうんうんと相槌を打った。
「わたしも月麭は大好き。祈望祝じゃなくても食べたいなって毎年思ってるよ」
「そうか……」
「せっかくですし、今年はうちでも作ってみましょうか。といっても私は作り方を知らないので調べないといけませんが」
「あ、わたしわかりますよ! 毎年お母さんを手伝ってるので」
「まあ。それでは、今回は私たちがアリヤさんに習う番ですね。よろしくお願いします」
「……自分で言ったのになんか緊張が……けど、がんばりますねっ」
朗らかに笑い合う魔女と弟子を、使い魔は黙ったままじっと見つめていた。
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