48/「〈我汝を言祝がむ〉」

 女学生たちが帰るのを待ってから、ラーフェンは薬屋を出た。

 異界渡りの際は本来の姿に戻るが、もちろん街中で変身するわけにはいかないので、門を出て砂漠へ向かう。うしろに魔女を従えて。


 一面に広がった砂の海は何事もなく静まり返っている。巨大な流砂の渦や泥水、おびただしい血痕はすべて風に吹き消され、死闘の痕跡は少しも残っていない。

 ここで激しい戦いがあったことなど、もはや誰にもわからないだろう。

 ムルもすでに胸部の傷は癒え、貧血からも回復している。もう歩くのに支えは要らないし、なんなら腕にコウモリ姿のセディッカを抱えている。


 だからこそ、魔神は去らねばならないのだ。


 魔法陣を破壊したあと、ムルとアリヤの回復を早めるため、ラーフェンは余剰の魔力をほとんど彼女たちに流した。

 だから今、彼はふたたび空腹に喘いでいる。


 ここに残ってもムルたちにしてやれることはもうないし、下手をすると異界に渡る余力すらなくなってしまい、そうなればまたムルから血を奪うことになる。

 それを避けるには早く迷宮ダンジョンに戻るしかない。あちらには戦闘で傷ついた者のための救護室があって、備品として輸血用液がある。

 あるいは、運が良ければ挑戦者や住民たちの新鮮な血も手に入る。


 ただ――もちろん、こちらに思い残すことがないわけではない。いろいろと中途半端なままで、気掛かりは山ほどある。

 だからせめて、言葉くらいは置いておく。


「さてと……セディッカ。僕がいなくてもちゃんとアリヤと仲良くするように」

「……」

「おーい。返事もなしかい?」

「だっ、……そんなの、答えようが……」


 セディッカはムルの腕の中で不貞腐れながら、語尾をもごもごと言いにくそうに濁らせた。頭では頷かなければいけないとわかっていて、気持ちの面で拒んでいるのが丸わかりの、相変わらず子どもじみた反応だ。

 嗜めるかわりに指で鼻面をつついてやると、彼はキュウッと不快そうに鳴いた。


「あまり意地を張りすぎるんじゃない。ほら、彼女はムルと似てるんだから、追い詰めるとむしろ余計に張り切るぞ」

「あら、私もそうですか?」

「そうだよ? せめて自覚くらい持ってくれ、周りの身が保たないから」

「まあ。かしこまりました」


 わかっているのかいないのか、ムルはくすくす笑って頷く。その笑顔を見て、今日はきちんと痛み止めの薬を飲んでいるのだとわかる。

 いつかはあんなものが要らなくなる日がくることを祈りながら、ラーフェンは本来の姿に戻った。

 夜の闇を切り抜いたような漆黒の翼を、大地を包むように大きく拡げて、彼は呟くように言う。


「〈無益ムル〉、いや――〈我汝を言祝がむムエル・ナパエタ・セストリ〉」


 魔女の真の名は、声に出すことで祝福になる。彼女は真名を呼ばれるたび、いつもくすぐったそうな顔をして、幸せそうにそれを聞く。

 ムルがいくら微笑んでも、今は反作用が彼女には返らない。それだけで充分だと思っていいだろうか。


 正直わからない。献益奴隷に心を与えたのは正しかったのか。

 魔力を注いで寿命を永らえさせて、結局その苦痛に満ちた生を拡大しただけではなかったのか、と。

 本人は決してつらいとは言わないから。苦しいと思うことすらできないのは、もしかしたらそのままであったほうが幸福だったろうか。


 ましてやこんなに身勝手な魔神を愛しても、何も返りはしないのに。


 答えを探しても仕方がない。今さら戻れない道の真ん中にいて、振り返っても入り口はもう見えないほどに遠いのだ。

 ならば、闇に続くかもしれないその先を、雷光で照らしながら進むしかあるまい。


「ラーフェンさま。どうかお元気で、くれぐれもお身体にお気をつけて……。

 次のお帰りを、お待ちしております」

「うん。……いってくる」


 インプンドゥルは真上に飛び上がった。地上に落ちた巨大な影を食らうように、天と地から、光の牙が同時に渡される。

 噛み合ったその交点は純白に絡んだ。強烈な輝きに、常人なら目を開けてなどいられなかったろう。

 あれほど大きく黒かった魔神の姿は、塗り潰されるようにして輪郭を失い――光に溶けて、みるみるうちに小さくなった。


 やがて光の破片すら完全に見えなくなるまで、魔女と使い魔はその場を動かなかった。



 ・・・✴︎



「……すごい。満点です。この短期間で、よくがんばりましたね……」


 採点をしていた先生が、褒めているわりに呆然とした声音でそう言った。信じられない……と思っていることを全く隠せていない。

 態度だけでなく、彼女の周囲にも疑念の色がちらちら浮かんでいるのを見て、アリヤは苦笑いしそうになった。


 ラーフェンが異界に去って三日目。

 もはや以前のアリヤではない。補習を最短期間で終わらせるべく、かつてないほど真剣に勉強した。

 もちろん今まで不真面目だったわけではないのだから、大なり小なり――というか端的に言って大幅な無理を通したわけである。文字どおり寝る間を惜しみ、それどころか食事の時間さえ可能なかぎり削って、心身ともにろくに休みもしなかった。


 きつくなかったと言えば嘘になる。

 常人ならば、まず身体が保たなかっただろう。魔力があるから三日間なんとかなったが、それでも明日以降も同じ生活を続けたら、遠からず倒れてしまう。

 少なくとも今日はさすがにちゃんと寝たいと思いながら、アリヤは先生にむけて身を乗り出した。


「じゃあ、今日で補習は終わりですか?」

「え? ……そ、そうですね。必要はなさそう……いえ、あなたが不安なら続けますが」

「わたしは大丈夫です!」


 満面の笑みで答えるアリヤに、先生はちょっと面食らったようだった。



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