第七幕 ✴︎ 瓶詰めの心

46/「あなたが何者になろうと」

 目を醒ますと、自分の部屋にいた。

 誰かに強く手を握られている。身体が重くて動けないので、視線だけでそれを辿ると、泣き腫らした顔の母と眼が合った。

 アリヤはぼんやりした頭で、とりあえず「ただいま」と呟く。……声なんてろくに出なくて、かすれた音がわずかに漏れただけだったけれど。


「ああ、神さま……」


 とりあえず水と、食事を摂った。

 そのあと見たことのない薬も飲まされた。口が曲がりそうなほど苦いこの丸薬は『魔女の薬屋』製で、血が作られるのを助けるものらしい。

 今のアリヤは極度の貧血状態で、この薬を何度か飲んで、充分に回復するまでは安静にしていなければならないそうだ。


 しばらく学校にも行けない。つまり、また補習を受けることになるだろう。


 不思議な気分だった。

 造血剤はとんでもなく不味いし、補習漬けは悲しい、ついでに事件のあらましを聞いた母がまだ嘆き悲しんでいることも申し訳ない。けれど、心は静かに晴れている。


「……お母さん。わたし、自分が特異点で良かったって思ったんだ」


 窓越しに見慣れた街の景色を眺めながら、アリヤはしみじみと言った。


「ただの人だったら何もできなかった。そしたら今ごろはこの街も、お母さんたちも、全部なくなってたかもしれない」

「何言ってるの、……そのせいで怪我ばっかりしてきたんでしょ!? 今度なんて、本当に死にそうになったんじゃないの……!」

「ううん、それは大丈夫だよ」


 ラーフェンは優しい。たぶん彼自身が思うよりもずっと。

 だからムルのこともアリヤのことも、彼なら絶対に死なせたりしないと思った。


「それにね、もし何も言わずに魔女さんだけが犠牲になってくれてたら……きっと自分を一生許せなかった。

 だから特異点でよかったし、嬉しい。わたしにしかできない、わたしがやるべきことを、できたんだもん」


 憧れの、薬屋の魔女。無私の精神で人びとに尽くす最上の存在。

 その弟子を名乗るに相応しい行いだったと自負できる。

 だから少しも後悔はない。もしまた似たような場面に遭遇しても、アリヤは何度だって同じ選択をするだろう。


 笑顔さえ浮かべて満足げに宣う娘を見て、母は深く溜息を吐いた。


「……あなた、昔からそうだったものね」


 まなじりに諦念が滲んでいる。悲しくて痛いそれは、あのときセディッカが見せた涙と同じ色。


『嫌いだ、おまえなんか』


 もちろんあの罵倒を忘れたわけじゃない。

 忘れられるはずもない。


 もう一度アリヤの手を握り、母は続ける。


「本当、誰に似たのかしら……。

 ねえアリヤ。確かに人助けは正しいことだし、街を救ったあなたは英雄かもしれない。

 でも忘れないで、あなたが何者になろうと、お父さんとお母さんにとっては大事な娘なの。だから、あなたが自分自身を大事にしてくれないと、どんなに立派なことをしたとしても、心から誇ってあげられない。それ以上に悲しいしつらいから……」

「……うん。心配かけてごめんなさい」


 頷きながら、心の中では別の人に向けても、同じ言葉を思い浮かべた。


(ごめんなさい)


 同時にこうも思う。

 結局のところ、こうして両親がアリヤのために思い煩ってくれることを、本当は理解できていないのかもしれない、と。

 今は申し訳なく思っても、アリヤは心から自分の行いを反省しているわけではないからだ。いくら心配されても、いざ傷つき苦しむ誰かを前にしたら、絶対に見て見ぬふりなんてできないから。


 百人を救えるなら百回傷ついても構わない。

 むしろ、手を伸ばせば助けられるはずの相手に背を向けるほうが、アリヤの心は何倍も苦しい。


 けれども――こうありたいと願う道を進むほど、アリヤの代わりに胸を痛める人がいる。両親が、あるいはセディッカが、そんなアリヤを見て悲しむ。

 どんなに努力しても彼らの心だけは救えない。それどころか、むしろアリヤ自身が加害者だ。


 きっとこれも反作用の一種だろう。

 アリヤが世界を愛するほど、いちばん欲しい人の心は遠ざかっていく。誰かを守るたび彼が傷ついてしまう。

 だけど恋の代わりに他のすべてを捨てるなんて、できるはずもない。


(何か、ないかな。わたしがセディくんのためにできること……)


 療養中、とくにすることもなくて暇なので、毎日ぼんやり窓を眺めてそんなふうに思った。

 傷つけてしまうことを避けられないなら、せめてその痛みを和らげる術を。もちろん、そんなものは根本的な解決にはならないとわかっているけれど、何もしないよりはいい気がする。

 むしろ、でないとアリヤが耐えられない。


 何もかもが自己満足で、自分勝手だ。

 ――これのどこが「いい子」なのだろう。いや、だからこそ「いい子“ちゃん”」、つまり善人ぶっているだけの身勝手な偽善者だと揶揄されたのか。


 ……。


 一週間もしないうちに、アリヤはすっかり元気になった。

 死にかけるほどの大量失血だったし、普通なら回復するのに何ヶ月もかかるだろうが、特別製の薬がよく効いたらしい。不味いのを我慢してしっかり飲んだ甲斐がある。


 もちろん造血剤だけの効果ではない。

 伏せっている間も、足りない血の代わりに身体じゅうを魔力が循環しているのがわかった。それで回復力が底上げされている。

 もう以前の残火のような力ではない。アリヤの魂にしっかり結びついた魔力の影響か、今は空気中を漂う不思議なものがはっきりと視えた。


 誰かの感情の残滓だったり、言葉だったりしたものが、陽を浴びた埃のようにキラキラと瞬きながら舞っている。


 こんなにも光に満ちている世界を守れたのだと思うと、やっぱり嬉しさが勝る。アリヤの決断は間違いではなかったのだと思える。

 だからアリヤがこれからするべきことは、悔やんだり立ち止まるのではなく、むしろ逆で。


 ――もっと前に進まなくてはならない。

 そして、もう誰も心配させなくて済むくらいに、強くなろう。



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