44/「きみを殺せと言うのかい」

 継ぎ剥ぎの悪霊は、竃の中のパイのように元の何倍も膨れ上がって、今にもはち切れそうにぶるぶると震えていた。絶えず上がる咆哮が蒼穹を揺らし、その苦悶の激しさを伝えるようだ。

 そう、彼女は明らかに、苦しんでいる。


 呆然とするアリヤたちの前にラーフェンが降りてきた。よくその身体で飛べたものだと思うほどにずたぼろになった魔神は、背中をこちらに向けたままで、まだ戦闘体勢を崩してはいない。

 ワティサリのようすが変わったので一時的に退いただけで、状況次第ではすぐまた飛び出すつもりなのだ。こんなに傷だらけなのに。


「……自己崩壊が始まったのか」


 セディッカが呆然と呟く。アリヤにはわからなかったけれど、意味を汲めたらしい魔神は、違うよと小声で訂正した。


「中でハルナが抵抗してるだけだ。それで……どうもいい返事が期待できそうな顔じゃないな」

「あ、……だめだった。偉大なる天空の父オニャンコポンは動かない……」


 使い魔は悄然とした声で報告する。

 どうやら彼は他の強力な精霊や神に助けを求めに行っていたらしい。そして失敗に終わったと。


 そもそも悪霊はそれほど長くは保たないそうで、放っておけばそのうち勝手に倒れる。むしろ下手に介入するほうが事態が酷くなるのだとか。

 つまり、これ以上ラーフェンが無理に戦う必要もないのかと、アリヤは一瞬安心しかけた。

 けれどすぐに、そういうわけにはいかないらしいと気づく。魔女も魔神もまったく穏やかな反応ではなかったからだ。


 むしろムルは顔を覆って、なんてこと、と悲痛な声を上げた。


「オニャンコポンさまともあろう方が、なぜそのような非情な決断を……これではハルナさまたちを見殺しにするようなものではありませんか……」

「ど、どういうことですか……?」

「……ワティサリをこの世に縛ってるのはナバトの魔法陣だろ。今はその中に魔神が呑み込まれてるから……容れ物が崩壊するときは、中身も一緒に粉々になる」

「そういうことだ」


 セディッカの説明に頷いたラーフェンが、補足する形でこう続けた。


 ――魔神だから死ぬとは限らないけど、まず無事ではいられないだろう。

 もともとハルナは重症だったし、他の魔神だって呑まれたとき少なからず抵抗しただろうから、無傷とは考えにくい。


「それと、場所も悪いね……ここはザーイバに近すぎる。魔神四体分の威力なら、崩壊に巻き込んで街ひとつ消滅させるくらい、わけないよ」


 そんな、ことって。

 アリヤは愕然とした。ハルナの手当てに意気込んでいたときは、まさかそんな大惨事が待っているなんて思いもしなかった。


 街が、消える?

 鮮やかな日干し煉瓦の街並みも、歴史ある寺院の美しい屋根も、賑やかな大通りも?

 両親や友人、学校の先生に、気のいい商店街の人びと、並木の枝の上や路地裏に暮らす生き物たち、その他のあらゆるザーイバの住民も?


 そして当然それほどの威力ならば、今ここにいる魔女とラーフェンと、セディッカも。

 アリヤの人生を彩ってくれた愛するものたちが一瞬で、まるごとすべて消し飛んでしまう――。


「な……なんとか、ならないんですか……!?」

「そうだな……一か八か、僕もあれに呑まれて内部から力の均衡を保てば、崩壊を遅らせることはできるかな。それでも……ザーイバを巻き込まない距離まで移動するのがせいぜいだろうけど」

「絶対におやめください!」


 ムルが悲痛な声を上げてラーフェンに縋りつく。

 血に汚れるのも構わずインプンドゥルの黒い羽毛に頰を寄せ、声を上げて泣きじゃくる姿は、憧れの薬屋の魔女とはまったく違った。

 清楚で凛とした美しさはどこにもない。幼い子どもが駄々をこねるように、同じ言葉ばかりを繰り返し喚いている――嫌です、また私を置いていかないで、と。


 そんな魔女を、魔神は風切羽で優しく撫でた。


「やれやれ……さては言いつけを破ったね。きみは案外と悪い子だ」

「だって、ッだって……! ぅぅうう」

「……。セディッカ、あとを頼む。ムルとアリヤを守りなさい。

 あと一応言っておくと、僕も別に死ぬつもりはないからね。ちょっと粉微塵にはなるだろうけど」

「……当たり前だ……」


 そのとき使い魔の返事が震えていたのは、きっと悪霊が悶えながら撒き散らしている砂嵐のせいではなかっただろう。


 魔神はワティサリに向き直る。ハルナの抵抗を受けてか、もともとめちゃくちゃだった身体がますますぐちゃぐちゃになって、ところどころ皮膚が内側から破れて血の泡を吹いていた。

 彼女の自己崩壊まで、あまり時間がない。

 飛び立とうと広げられたインプンドゥルの翼は、もはやぼろきれのように穴だらけで、アリヤは思わず息を呑んだ。そんな身体で羽搏はばたけるのか、――死ぬかもしれないのに戦いに行くつもりなのかと。


 視界を覆うほどの巨大な魔鳥の背が、今はか細く頼りない。そこにほとんど力が残っていないことがわかるからだ。

 あるのはただ、魔神としての矜持と、自らの隷属を守るという意地だけ……。


「――お待ちください」


 ふたたび魔女が主人を呼び止める。

 しかし、もう先ほどまでの忘我もあらわな涙声ではなかった。震えは残っているものの、そこに滲む色は悲嘆や哀惜のそれではない。


「往かれる前に私の血をお召しください。反作用も合わせれば、魔法陣を安定させたまま停止させることも可能でしょう」

「ムル!?」

「……足りないよ。それとも、僕にきみを殺せと言うのかい」

「五柱の魔神にザーイバの全住民を、私ひとりの命で救えるのでしたら、安い買い物と存じます」


 ムルの眼に揺らぎは少しもなかった。それほどまでに薬屋の魔女の決意は固い。

 そして、魔神が躊躇っている間にも、彼の肩越しに悪霊ワティサリが悶え苦しむのが見える。表皮は血泡にまみれ、激しく痙攣しながら、腕と呼んでいいのかわからない歪な器官をこちらに伸ばそうとしている。


 相変わらずあたりには砂塵を巻き上げた風が荒れ狂う中、いつの間にか彼女の足元はおぞましい色に濁った沼と化していた。そこから、やはり言葉では表せないほどぐちゃぐちゃな色と形をした植物のようなものがうぞうぞと生え伸びている。

 喰らった魔神たちの力が暴走しているのか。それとも彼らがまだ、なんとか呪縛から抜け出そうと、悪霊の内側でもがいているのだろうか。


 何にせよ時間はない。

 このままだと魔女だけが犠牲になる。


 それなら今、アリヤが言うべきことは、たったひとつ。


「わたしの血も飲んでください!」



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