43/「せめてアリヤだけでも……」

 単純な算術だ。

 同格の魔神が五体いて、うち三体と半分が食べられた。残っているのは一体半。

 戦力差はどれだけある? 倍以上。


 しかもその「一体」は餓えている。こちらの世界に戻ってから一滴の血も飲んでいないからだ。

 しかも「半」もひどく傷ついている。

 もはや奇跡でも起こらなければどうにもならないことくらい、誰の目にも明白だった。


 ならばどうする?

 ――当然、助けを呼ぶ。それしか手はない。



 セディッカは空の上にある宮殿を尋ねた。

 主は偉大なる天空の父オニャンコポン。霊属の長と目される上位の神霊の中でも、もっとも古く強力な神の一柱だ。


 ワティサリは単なる人間の悪霊だが、中程度とはいえ魔神を三体以上も喰らっているとなれば、相応の被害を周囲に撒き散らす。このまま放置すればいずれ世界規模の変事にもなりうるだろう。

 この事態を、聡明な神の王ならば看過することはないはず。そう思っての参上だった。


 果たして、玉座に腰掛けていても膝より上が見えないほどの天空神の巨躯からは、暴風よろしく轟声が吹き下ろした。

 曰く――手出しは無用。


「っな……なぜですか!? このままでは我が主も殺されます!」

『良いかな、小さき使者よ。かの亡者はたしかに勢い凄まじく魔神らを襲っておる。だが、人のに人のまじないで、それほど永くは保つまいて』

「あ……たしかに、かなり不安定だった……」

『うむ。しばし辛抱せよ。さすれば彼女は自ら崩れ滅ぶであろう』


 ……でも、それでは、そのままでは。


『むろん八本足の英雄アナンシを送ればより早く決着するであろうが……それは多くの破壊を伴う。それこそ悪霊がもたらす以上になる。

 それに、そもそも我が息子は気まぐれ、すぐにはつかまらぬでな。どのみち間に合うまい』


 そこで天空神との謁見は閉じられた。セディッカが返事をする間もなく空中に放り出され、白雲の門も消えてしまい、使い魔は呆然としたまま落ちていく。

 落下による風圧に揉まれながら、真っ白になった頭をどうにか動かしても、浮かぶのは絶望の一色だけ。


 悪霊は自己崩壊するから放っておけばいい?


 それにはどれくらいかかる? その間に被害に遭った者たちはどうなる?

 今まさに対峙しているラーフェンとハルナが潰れたら、――次に襲われるのは、近くにいる魔力を持つ者。つまりムルとアリヤなのだ!


 せめて……せめて急いで戻って、二人を避難させるしかない。

 でもどうやって? 肉体を持つ者を空間ごと移動させるような大掛かりな術なんて、魔神でもなければできない。

 そして、そのラーフェンは恐らく、もう限界が近い。……今だってセディッカの身体から、彼に与えられた力が抜けていくのを感じている。


「ッくそ、何か……何かないのか……!」


 焦っても喚いても事態は変わらない。そんなことわかっているが、悪心をすべて吐き出せば、少しは冷静になれないかと思った。

 落ち着いて、他の方法を考えなくては……時間がない……ともかく一度戻って、応援は望めないことを伝えなくてはならない。

 そしてムルを、アリヤを、守らなくては。


(そのための使い魔だ。ムルが死ねば、繋がってる俺だって死ぬ)


 翼を翻す。

 空を飛べる生き物として生まれたのに、いつまでも落ちていては恥だ。自分で飛ばなければどこにも辿り着けない。


(考えろ。考えろ。本当に何も手はないか?

 それに……どうにもならなかったら、そのときはせめてアリヤだけでも……だってあいつは関係な――)


 ――無関係じゃない。


「ッ」


 ――セディくんが認めてくれなくても、わたしは魔女さんの弟子なんだよ。


 思考を遮るように、ふいに以前アリヤに言われた言葉が蘇った。

 まだ魔神から力を与えられる前、特異点としての己の運命すらろくに理解できていないころの、無知で無力な少女の――やけに強い声。セディッカの胸を抉って、言いようのない痛みを生じさせる宣言。


 無関係、ではない。わかっている。


 いつか彼女が薬屋に現れ、ムルに共鳴して魔女を志すだろうことは想像できたし、占えばいつも同じ結果になった。そのよすがを先に潰しておけばおかった。

 わかっていたのに手を打たなかった。

 興味があったのだ。ムルのような人間が彼女以外にもいるのだと、初めて知ったから。


 一度くらい会ってみたかった。縁を断つのはそのあとでも遅くはないと思った。

 ところが初めて来店した彼女は失恋したとかでわんわん泣いていて、これでは為人を知るどころではない。それなら立ち直るまで待とう、とまた先延ばしにした。


 ……最悪だ。間違えた。

 もっと早くに絶縁しておけば、こんなことに巻き込まずに済んだのに。


 ――そうやって遠ざけて、いい結果になったことがあったかい、セディッカ?


「うるさい……!」


 もしアリヤが死んだら、それは己の優柔不断が招いたこと。セディッカが殺したも同然だ。

 それだけは絶対に避けなくては。



 風を切る。雲を破った途端、視界には赤茶けた砂漠が広がった。

 遠目からもわかる巨大な流砂と血溜まりを目掛けて、使い魔は細い翼手まえあしで懸命に空を蹴る。

 悪霊ワティサリが咆哮した。小さなコウモリごときに反応したのではない、今まさに蛇神の残り半分を腹に収めて、その歓喜に吠えたのだ。


『ァァァアアア――』


 濁った、おぞましい声だった。

 ぞっとしつつも人に変身しながら魔女の許に降り立つと、ムルは泣いていた。術者が心を乱したせいで呪壁が崩れ始めている。

 先にセディッカに気づいたアリヤが、震える声で言った。


「セディくん! 魔女さんが、ううん、その前に……ラーフェンさんが……!」

「わかってる。落ち着け。……ムル、大丈――」


 ――ぁぁあああぁ。

 セディッカの言葉を遮るように、ふたたび怪物が唸りを上げる。けれど今度は歓声というより、苦しみ嘆く悲鳴のような声音だった。


 思わず振り返った蒼碧の瞳に、歪な影が落ちる。



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