42/「魔女に従いなさい」

 きっと、ワティサリという人は、生きていたときは美しい女性だった。長く艶やかな鉄色の髪と薄桃の肌に、鮮やかな臈纈ろうけつ染めのドレスがよく似合っていただろう。

 けれど――今はもう、それらはすべておぼろげな名残でしかない。


 人の形を留めているのは上半身まで、その下からはいろいろな動植物をめちゃくちゃに繋ぎ合わせたような状態だった。構成パッチワークが荒すぎて言葉では説明しきれないほどだ。

 もはや人の部分のほうが遥かに小さくて、むしろワティサリこそが怪物に呑まれかけているかのようにも見える。

 ぐちゃぐちゃの混成部分にはハルナが変身した蛇の皮膚と似たようなものも何箇所か混ざっていて、襲われた魔神たちが継ぎ接ぎになっているのだろう、と伺えた。


 悪霊の輪郭はぼんやりと歪んでいて、背後の景色が透けて見える。肉体を持たないからだ。

 アリヤがこの不安定な霊を視認できるのは、身体の中にラーフェンから与えられた魔力がまだ残っているからで、街の人たちの眼には巨大な流砂だけが映る――直感的にそう理解した。


 渦の手前でワティサリを威嚇しているハルナは、今は大蛇の姿をしている。身体を覆う鱗は銀灰色で、ところどころに暗褐色の斑が入っていて――そして切断された腕の名残か、尾の先が千切れているのが痛々しい。

 小さな子どもの容姿ではぴんとこなかったが、たしかにこの外見なら魔物らしいなと、魔鳥の脚に捕まりながらアリヤは思った。

 ラーフェンも同じだ。人型でいるときの彼に恐ろしさはほとんど感じないけれど、こうして巨大な鳥になると有無を言わせぬ迫力がある。


「さて、きみたちを抱えたままじゃやりにくいから少し離れたところに降ろすよ。あとはなるべく自分で身を守るんだ」

「……でも、ラーフェンさまは……」

「ああ。……だからだよ、ハルナを守って時間を稼ぐから、その間に」

「ッ……わかりました。お気をつけて……。

 アリヤさんは私から離れないでくださいね」

「……俺はどうしたらいい?」


 セディッカの問いに、漆黒の雷鳥はわずかに間を置いてから、


「魔女に従いなさい」

 とだけ答えた。


 直後、凄まじい地鳴りと共に流砂の渦が

 恐らく正体は竜巻で、それが多量の砂を巻き上げているのだろうが、アリヤの眼には渦そのものがそっくり屹立したように見えた。ぎゅうぎゅうと唸るような音を立て、周囲すべてを削り潰そうとしている巨大な掘削機ドリルだ。


 砂竜巻の凶悪な切先はハルナに向けられる。

 蛇神は即座に逆回転の濁流を起こして身を守った。

 防御しつつ反撃の隙を伺っているようだが、そんな余地はないとアリヤにもわかるほど、目に見えて押されている。水渦の勢いは明らかに竜巻よりも弱く、わずかな時間で量ともどもさらに乏しくなっていく。


 その間にアリヤとムルは渦からだいぶ離れた場所に降ろされた。相変わらず遮蔽物はないけれど、そのぶん状況はよく見える。

 ラーフェンはとって返してハルナに加勢したが、セディッカは魔女に何かの指示を受けて、まったく違う方角へ飛び去った。彼が戦いに加わらないことに、正直少しホッとしてしまう。


 アリヤはムルの背に庇われて、彼女の唱える呪いの言葉を聞いていた。魔力が宿った言霊は、鈍色に光る半透明の文字列となって実体化し、自分たちを守るように周囲に不定形の壁を作っていく。


 数週間前に魔力を分け与えられただけの見習いには、何も手伝えることはない。ただ視えるだけ。

 だから必死に祈った。


 ラーフェンやハルナが大きな怪我をすることなく戦闘が終わることを

 魔女やセディッカが、そしてこの騒ぎにそろそろ気づいたであろうザーイバの人々が巻き込まれないことを。

 そして……ワティサリが反魂術の呪縛から解放されて、安らかに冥界へ還ることを。


 本当に、ほんの少しでも、自分に何かを変える力があるというのなら。

 反作用が怖くないとは言わない。でも、目の前で誰かが苦しんでいるのよりは何倍もマシだ。


 けれど。

 アリヤの願いを、甘ったれた夢想だと嘲笑うように、鮮血が散った。おびただしい量のどす黒い赤色が、空にいくつもの花模様を描く。

 二柱の魔神の苦悶に満ちた叫声は、呪詛の防壁を貫いてアリヤたちの耳をつんざいた。


「っラーフェンさま!」


 魔女が弾かれたように前に出るが、皮肉なことに自分の張った呪壁に阻まれる。それだけ冷静さを欠いている。

 そのまま崩れ落ちそうになるムルを支えようとして、けれどどうにも力が入らなくて、アリヤも一緒にへたり込んでしまった。

 感覚的にわかる――自分たちの魔力の源、ラーフェンがひどく弱っているのだと。


「魔女さん、これ……!」

「あ、……うぅ、…………ぅぁあ……ッ」

「大丈夫ですか!?」


 大粒の涙が砂漠に落ちる。いくつ滴っても乾ききった灼熱の大地が潤うことはなく、あっという間に消えていくのに、摂理に抗おうとするように何度も何度も悲嘆を垂らす。

 泣きじゃくる魔女を支えながら、アリヤはおろおろと周囲を見回した。


 ラーフェンは砂嵐の手前に、遠目からでもわかるほど血まみれになって転がっていて、動かない。

 ハルナはその奥、同じく傷だらけで今にも流砂に呑まれそうになっている。

 セディッカの姿は、……ない。まだ戻ってきていない。


 似ていると思った。ナバトの洞窟にいたときと。

 傷ついた囚われの魔女を救えず、ラーフェンが目の前で串刺しにされ、あまつさえ自分が殺されそうになってさえ、アリヤは何もできなかった。


 あのときはお芝居だったし、セディッカが助けてくれた。でも今回はそうじゃない。


 ラーフェンが血を流しながら身を起こして、セディッカはまだか、と震える声で呟く。その視線の先でハルナが引き摺り込まれる。

 流砂の中央にアリジゴクのように待ち構えていた異形の悪霊は、水を飲むように蛇神をずるずると啜って、鱗ひとつ残さずに腹の中に収めた。


 天を仰いで、ワティサリは咆哮する。

 魔神四体を喰らった魔物の、勝鬨かちどきの声だった。



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