21/「俺たちまで騙すなんて」
刃が振り下ろされる。少女に逃れる術はなく、呆然とそれを見つめている。
同じくどうすることもできない魔女は、両眼にその悲劇を映しながら、頬で涙と血を混ぜた。
反対に魔神は眼を閉じた。
けれど、たったひとりだけ、いや、たった
「……ッふざけるなぁッ!」
突如として物陰から現れたその小さな黒い獣は、がむしゃらに妖術師へと突進したように見えた。
耳が痛くなるような破裂音を伴ったその一撃は、彼の体格からは想像できないほどの威力を以てナバトを突き飛ばした。わずかに反応が遅れた妖術師はもろに喰らい、血痰を吐き散らしながら横転する。
セディッカも地面に転がったが、すぐさま跳ね起きて叫んだ。
「……っ、アリヤ!」
「せ、セディくん……だ、ダメだよ出てきちゃ……ッ」
「仕方ないだろこの状況じゃ、……あぁくそ、おいラーフェン、どういうつもりだ!」
ふらふらしながらも人型に変わった彼は、まずアリヤを縛る鎖を解く。ようやく自由になった少女の目の前で、今度は串刺しにされていた魔神の姿が掻き消えた。
どういうことだかわからず困惑する少女の腕を引き、使い魔は魔女の許へ行く。
よく見れば彼女にも荒縄のほかにアリヤと同じように鎖が巻かれていて、長さはこちらに使われたものの数倍以上ありそうだった。
「ムル、遅くなってごめん。大丈夫か」
「ええ……驚きました、こんなに怒っているあなたを見たのは久しぶりです」
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ! とにかく縄と呪鎖を解かないと……アリヤも手伝ってくれ」
「わ、わかった。……あの、ラーフェンさんは……」
「あっちは放っておいていい。……まったく、俺たちまで騙すなんて」
忌々しげにセディッカが睨みつけた先。
這いつくばるナバトの前にラーフェンが立っている。人型のまま、しかも無傷で。
びしり、とどこかで嫌な音がした。
なんだか、……熱い。それに急に肌がべったりと湿った感じがするし、それを風が幾度となく撫でていく。
それに、それから、なんだか……地面が、ひどくゆっくりと、揺れている。
――びぎ。ぎぢり、びし。
ばぎん――。
・・・✴︎
敢えて。
そんな必要もないが、ここでナバトの名誉のために代弁してやるなら、彼は決して油断していたわけではなかった。
まず特異点を殺めるのには相当の集中を要する。
アリヤが持つ引力がムルほど強力でなくても、「死」の重みは呪術に触れている者なら誰しも知るところ。しかもその反作用の恩恵に預かれるのは自身ではなく囚われの魔神。
一歩過てばすべてを無に帰す危険を冒すのだから、一瞬たりとも気は抜けない。
本来なら術場には侵入者を防ぐ結界を張っておくものだが、それはできなかった。なにしろ真の目的はインプンドゥルを招き入れることだったからだ。
そのうえあたりには事前に捕らえた四種の魔神の気配が嫌というほど満ちている。
ゆえにコウモリのような小さな獣が、よりによって洞窟などという似つかわしい空間に紛れ込んだことに――それにしては大型の種だという点にはこのさい眼を瞑るとして――、それ以前の膨大な関心事の前に覆い隠されて見えなかったとしても、無理はないのだ。
(まあ、こっちはそれを利用させてもらったわけだが)
「なぜだ、なぜ動けるのだ、たしかに捕らえたはずなのに……」
「雷と稲妻の違いはわかるか?」
ナバトは膝を衝き、口端から血を垂れ流しながら、ラーフェンを見上げた。ありったけの魔力を載せたセディッカの渾身の一撃によって、妖術師の肋骨は砕かれている。
呪には気力を使うため、負傷させた時点ですでに試合は終わったようなもの。
「稲妻は雷を構成する現象のうち、光のみを指す言葉だ。つまり音や熱は含まない。そして強烈な閃光は濃い影を生むので、これは表裏一体と言える」
「あ……まさか、雷光で……影を……某に幻影を見せたと……?」
「初めから目的は僕だとわかっていたが、そんな企みをする時点で何がしか裏があると思ったんでね。
まあ喜べ。今の僕ひとりで楽に倒せる相手ではない、と認めてやったようなものだ」
――び、ぎ、ばりん。
にっこり微笑んでナバトを称賛したラーフェンの左右に、いくつもの影が現れる。
少しずつ砕けていた左右の壁が完全に剥がれ落ち、その裏に封じ込められていた魔神たちが、ついに自由の身となって顕現していた。
水。双頭の蛇、「渦より生じ」「泡沫に還る」ハルンとハルナ。
風。嵐の王、「厄虹をもたらす魔獣」ネナウニル。
地。藪に巣食う魔人、「巌の怪翁」キンキルシ。
炎。囁く鬼火、「闇夜の呼び声」アジュア。
そして雷は、血に飢えた魔鳥インプンドゥル。
「ええと、確実に捕らえられる低級の魔神ばかり選んだんだったか? それは堅実でいいことだ――とはいえ、さすがに一度に全員を相手にするのは大変だろうな」
魔神たちの瞳は怒りに燃えている。
それぞれ故郷から連れ去られ、暗く狭い岩壁に押し込められた苦痛。小物と侮られた屈辱。死者を蘇らせようなどという世の摂理に対する重罪。
そして、それらをたかが人の身で犯した思い上がりに対する呆れ。
憐れだ、とラーフェンは思った。
その感情は、いつかムルに初めて会ったとき感じたものと、少し似ている。
この男はただ亡き妻を求めただけ。彼自身それほど老いてはいないから、恐らく病か不幸な事故で失ったのだろう。
悲しい別れのために心を病み、禁忌と知りつつ死者を蘇らせたいと願うことは、短い生しか持てない人間にはよくある。そして呪の知識を持つ者が実現を試みた前例も山ほどある。
けれど誰もが、いつかどこかで諦めなければならないのだ。
何人も世界の均衡を侵すことは赦されない。
罪を犯せば罰を受ける。行いには必ず反作用がある。
「……もう眼を覚ますときだ。決して叶うことのない、愚かで憐れな夢からね」
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