19/「いいえ、可笑しくはないのです」

 しばらく涙が止まらなかったけれど、ラーフェンはそんなアリヤを黙って待ってくれていた。

 やはりアリヤには、彼がそれほど恐ろしい存在には思えない。魔女の犠牲にしたって、その話をしているときの彼は、彼女の血を喜んで啜っていたような語り口ではなかった。

 むしろ「今は別の方法で補給している」と言ったときの声や表情は、ほとんど安堵に近かった気がする。


 この人はアリヤにムルと同じような犠牲を求めたりしないだろう。根拠などないけれど、そう思う。

 思いたい、と言い換えてもいい。


 ともかく涙を拭ってふたたび歩き出す。今は自分の未来より魔女を救うことを第一に考えなければ。


 進むほどにあの威圧感が増していく。

 もはや気のせいではない。この奥にいる何者かが、アリヤたちの侵入を拒んでいる。

 最後にはとうとう「来るな」という声を聞いたようにすら思った。といっても耳にしたのではなく、直に心に訴えかけられたような感覚だったので、ほんとうに聞いたという確信は持てないけれど。


 ずっと狭くて細長い路が続いているかと思ったら、途中から急に道幅が広くなる。

 それも明らかに人の手によって拡げられていた。壁や床の色が違うし、鍾乳石にいくつか切断された痕がある。


 そして、薄明かりに満ちた洞窟の最奥部には、ほんものの炎が躍っていた。

 どこから空気を取り込んでいるのだろう、アリヤにはわからないけれど、たしかに洞内の空気は揺れ動いている。篝火かがりび――というより護摩壇ごまだんは、ぱちぱちと音を立てて赤く周囲を照らしていた。


 その前に人影がふたつ。

 ひとつは、あの男。外国人の妖術師。

 もうひとつは。


「……魔女、さん……」


 アリヤは息を呑んだ。

 魔女は柱のようなものに縛りつけられている。よほどきつく封じているのか、荒縄が肌に食い込んで血が滲んでおり、それが炎に炙られて光って見えた。

 これではまるで――というより、拷問そのものではないか。


 こちらの声に魔女はかすかに顔を上げようとした。けれどもうその気力もないのか、髪が少し揺れただけだった。


「おお、思いのほか早く来てくださった。

 それでは魔鳥インプンドゥルにご挨拶申し上げる。我が名はナバト、訳あってそなたの婢女はしためをお預かりしております」


 アリヤたちに気づいた妖術師は、どこか嬉しそうな声でそう言った。

 今のラーフェンは人型のままだが、ナバトと名乗ったその男は一目で彼の正体を見破っている。それにアリヤを気にするようすもない――大した脅威にはならないヒヨッコだと見抜かれているのか。


 ナバトは自信に満ち溢れている。

 堂々としたその姿。背が高く、がっしりとした立派な体躯、堀の深い精悍な顔立ち。

 深みのある声は洞窟の反響効果もあって朗々と轟き、いっそう迫力を増している。魔神を前にほんの少しも怖気づいたところがない。


 比例してアリヤの不安が大きくなる。こんな人にどうやって勝つのか、ほんとうに魔女を助けられるのか……?

 そんなアリヤの強張った肩を、ぽんと軽く叩いた人がいた。


 ラーフェンはなぜか、――声に出さずに口だけで「ごめんね」と呟いてから、ナバトに視線を向けて、こう言った。


「僕の魔女を返してもらいに来た。特異点の女が欲しいのなら代わりをやろう」


 ……?

 あれ、なんか打ち合わせと科白が違う?


 一瞬アリヤは意味がわからずにきょとんとした。そうする間にラーフェンに軽く背中を押され、よろめくようにして数歩前に出る。

 たっぷり三秒くらい置いてから、自分は魔女の身代わりとして差し出されたのだ、ということに気がついた。


 妖術師ナバトと目が合う。

 男の眼には光がなかった。護摩壇あかりを背にしているからではなく、黒真珠のようなその瞳は、沼底の泥のように濁っていたのだ。


「……ッ」


 背筋がぞわりと総毛だった。

 怖い。この人は、怖い。

 たしかに生きた人間なのに、まるでもう魂を失くした亡霊か、空っぽの人形のようだ。


 願望も祈念も欲求もない。感情が何ひとつ浮かんでいないのだ。

 底の見えない深い穴のように、ただ闇だけが果てしなく続いている……。


「ふ」


 そして、怯えるアリヤを見て、ナバトは笑った。

 嘲笑ったのではない。哄笑したのだ。


「ふふっ、ふはっ、はっ、はっ、あはは、あははははははっ……いやいや、これは、なんと申し上げれば良いのやら……!」

「何がおかしいんだい?」

「いいえ、可笑しくはないのです、それがしは嬉しいのです……」


 笑いすぎて生理的に滲んだ涙を指先で拭うと、それをぴんと宙に爪弾いて、妖術師は続けた。


「――〈地声ぢしょうこれ電霊でんりょうを剋す。則ち疾雷轟轟しつらいごうごう震えども岩屋戸は貫けじ。

 石棘せっきょくよ奮い立て、の黒翼を尽く縫い留めよ〉」


 響き渡ったその声には、魔力が乗っている。素人にもそれがわかるほど、空気がびりびりと震えて波立ち、妖術師の背後では護摩壇の炎が渦巻いている。

 どおおッ……と大地が泣き叫ぶように揺れた。


 尻もちをついたアリヤの背後で、砂埃が巻き上がる。岩壁を食い破るようにして、銅鑼でも打ち鳴らしたような轟音とともに、剣か槍のように尖った巨大な晶石がいくつも現れたのだ。

 直後に黒い羽根が嵐のように舞い狂った。

 驚きながらも振り返ったアリヤの頬に、羽毛と一緒に生温かいものが降りかかる。


 ラーフェンが――魔神インプンドゥルが、いつの間にか鳥の姿になって、串刺しになっていた。



 →

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る