17/『私の悲鳴に眉をひそめずに済むのでしたら』

「カクア……何?」

「カンブジ。精霊の一種で大地を司る種のものだ。大陸じゅうにそういうのがいて、世界の均衡を保ってる。そこのインプンドゥルみたいな魔神もそうだ」

「……そもそもなんだけど、魔神って何?」

「ああ、そこからか」


 アリヤにはそうした神秘の世界に関する知識がない。魔女に習ったのは薬のことだけだった。

 だから特異点がどうのという話にしても、未だに半分くらいは飲み込めていない、というのが正直なところだ。


 歩きながらセディッカとラーフェンが説明してくれたところによれば、この世には人間とか動物といった「生物」と、精霊や魔物といった「霊」の二種類の魂があるのだという。

 両者の違いは明確で、生身の肉体を持つか否か。

 今この場の三名では、アリヤとセディッカは生物で、ラーフェンは霊に属する。


 霊の中でも格が高いものは、魔力を他者に与えて隷属させることができる。それが神だ。

 そして災害を起こしたり贄の献上を求めるといった、生物に危害を加えることのある霊属は、俗に悪霊や魔物などと呼ばれる。それらが神でもある場合には魔神と称する。


「ラーフェンさんも魔神ってことは……生け贄が必要なんですか?」

「そうだよ。きみも指示夢で見たように、僕はときどき誰かの血を啜らないと飢えてしまう生きものなんだ。

 それにそもそも、なんの対価もなしに力だけ与えたら均衡が崩れるなんてものではないしね」

「……なら、魔女さんは……」


 誰かを、ラーフェンに捧げていたのか。

 にわかに青ざめたアリヤの顔を、腕の中からセディッカが見上げる。


「ムルは誰も殺さなかった」


 コウモリはぽつりと呟く。その声は震えていたから、安心していいことではないのだとアリヤもわかった。

 魔女は誰も犠牲にしなかった。それが意味することは、つまり。


「……自分の血を、こいつにくれてやってたんだ。何百年もずっと。

 昔は今より世の中が悲惨だった。魔女はどこでも政治や争いの道具にされる……実際、ムル以外の魔女はそれを良しとしてた。政敵を殺し、民に都合のいい嘘を信じ込ませて、戦場を死体の山に変える――そんなのが当たり前だった」

「ひどいね……」

「ああ、ムルもそれを嫌がって、人を避けてやっと辿り着いたのがザーイバだ。そのころは人間なんか住んじゃいない荒地だったから……当然、生け贄はいないし、いたとしてムルは人を傷つけられるような性格じゃない」


 だから彼女は我が身を切り裂いた。

 すでに魔力を与えられてもはや人とも呼べぬ存在になっていたから、いくら血を流そうとも死ぬことはない。だから自分を差し出した。

 そうすれば、魔神も誰かを傷つけることはないのだからと……。


 それが、誰よりも優しく気高いザーイバの魔女の「惨たらしい現実」。

 セディッカが逃げてもいいと言った理由が、やっとわかった。そして、その言葉のほんとうの意味も。


 逃げてもいいというより、逃げてほしいのだ。

 傷つくのは血を流した者だけではない。魔神のために苦しむ『魔女』の姿を、使い魔としてもうこれ以上は見たくないから。

 そしてアリヤもムルと同じように自身を差し出しかねないことを、彼には見抜かれている。


 ああ、だからセディッカは最初からずっとアリヤを突き放していたのだ。

 自分たちの領域に入ってこないように。血のわだちを辿って、彼女までもが自滅の奉仕者にならないようにと。


「……どうしてムルさんは、そんなことをしてまで魔女になったの? セディくん、言ってたよね、そうしないと身が持たないって」


 これでは魔女になってからのほうが辛いじゃないか――アリヤにはそう思えてならなかった。けれど、ラーフェンが首を振る。


「僕が初めて会ったとき、ムルの立場は奴隷だった」



 ・・・✴︎



 献益奴隷、と呼ばれていた。

 人の形をした因果律。撚りあう禍福を体現した存在、それが特異点。


 その女を鞭打てば幸福が降ってくる。

 農民ならば畑と家畜が肥え、商人ならば財が増える。大臣ならば税が集まり、将軍ならば戦に勝ち、王ならば国が安らいだ。

 今より神秘や呪術の存在が人の近くにあった時代には、特異点の存在を誰もが知っていた。


 まだ幼い少女だったにも関わらず、そして何の罪人でもないというのに、手加減はされなかった。そうでなければ大きな福が得られないし、また特異点は寿命以外では死にづらいという特性がある。

 というのも自身の死は不運としては大きすぎたので、それに釣り合うほどの幸運を引き出すのは困難だから。


 血を好む魔鳥はその暗澹たる臭いにつられて彼女を探し当てたけれど、その惨たらしい姿に一抹の憐みを抱いた。

 とはいえあくまでも本性は魔物、それは決して情などではない。ほんの気まぐれにすぎなかった。

 少なくとも、そのときは。


『きみを魔女にしてあげよう。ここから自由になりたいだろう?

 対価は贄を、新月ごとにもらおうか』


 血まみれの少女は、微笑んで答えた。


『それで……もう誰も、私の悲鳴に眉をひそめずに済むのでしたら……』


 あとはセディッカの語ったとおりだ。彼女は自分だけが傷つき続ける道を選んだ。

 魔女を利用したがる者たちから逃げて森を彷徨い、そこで出逢った一匹のコウモリの仔だけを供に迎えて、以来人の世と関わることをやめた。


 けれど彼女の主人はインプンドゥル。必ず贄を必要とする、血に飢えた悪魔の鳥。

 彼の渇きを満たすために、魔女は我が身を刻み続けた。

 一度結んだ契約は変えられない。どんなにコウモリが嘆いて止めても、どうしようもなかった。


「まあ結局は僕がいろいろと面倒になったんで、今は違う方法で補給してるんだけどね。それでも今でもセディッカには恨まれているというわけさ」

「……」

「真に優しく気高い者は、躊躇いなく己が身を切り裂くものらしい。ムルを見ているとそう思うよ、つくづくとね。

 何の犠牲もなしに奇跡は得られない。それでもきみは魔女になりたいかい?」



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