02/「留守だ。帰れ」
「留守だ。帰れ」
ぴしゃり。……という擬音が添えられたすげない一言にアリヤは思わず肩をすくめる。
ちなみに声の主は、日中の陽射しがきついこのザーイバの街では標準的な、浅黒い肌をした若い男の人だ。
さほど高くない位置にあるその頭は、地味な灰茶のぼさぼさ髪に覆われている。男性にしては少し長くて、右耳の前のひと房だけ二色の
まだ少年と呼んでもいいくらいの歳に見えるのに、おじいさんみたいな渋い色味の服を着ているし、顔立ちもなんていうか平凡だ。
正直あまりぱっとしない。それでもアリヤが彼から眼を逸らせなかったのは、その翡翠色をした美しい瞳のせいだった。
――きれいな色。まるで
思わず脳裏をよぎったのは、この街の広場の真正面にある、国内でも屈指の美しさを誇る歴史的建造物だ。非常に古い建物ながら高い塔を有するため、雫型の屋根部分は街のどこからでも見ることができる。
ザーイバの宝、市民の誇り。ここで生まれ育ったがゆえに他の街を知らず、決して見識が広いとは言えないアリヤが持ちうる、最高最大の賛辞でもある。
ただの比喩ではない。寺院の名前の由来になった『祈りの泉』、そしてその水面に映った青空を再現したと言われる屋根瓦は、ちょうどこんな緑みがかった蒼碧色をしている。
思わずうっとり見つめてしまった眼差しも、相手には単に呆けているようにしか見えなかったらしい。少年は黙ったまま訝しげに眉を潜めた。
さっきから彼の態度はすこぶる悪い。
というか、そもそも……誰だろう、この人?
少し視線を上向かせると、青年の頭上にやや小ぢんまりした看板が見える。年季の入った建物のわりにそれだけ妙に新しいのがちぐはぐだが、枠に彫り込まれた
そこには優美な手書きの文字でこのように書いてある。
『魔女の薬屋 ご相談諸々承ります』
表通りからは離れたところにあるその店は、この街の人間なら知らぬ者のいない魔女の薬屋。
本来なら、その妖しげな神秘性を秘めた名称のとおり、一般の人々からは遠巻きにされる場所だったかもしれない。しかし現状は女学生たちの放課後のたまり場となっていて、アリヤもその常連のひとりである。
そこそこ通い詰めていると自負しているが、こんな人物は初めて見る。なので魔女はひとりで暮らしているとばかり思っていた。
親類……というわけでもなさそうだから、新しく店員を雇ったのだろうか。人手が足りないようには見えなかったけれど。
ともかく困惑しているアリヤに、少年は見せつけるように大きな溜息を吐く。
「……どうせ大した用じゃないくせに」
周囲から温厚と称されるアリヤでも、この態度はいただけない。少しムッとしたが、そもそも喧嘩なんてしたことがなかったので、大した
「……ま、魔女さんはお出かけ中ですか?」
「そう言ってるだろ」
「いつごろ帰ってくるかは……」
「知らない」
「ところで、……あなたは誰?」
「名乗る必要はないと思うが」
――や、やな感じ……。
取りつく島もない無情な問答にアリヤは意気消沈した。腹立たしさもあるにはあるが、悔しいけれど言われたとおり大した用事があるわけではない。
いや、アリヤにとっては、とても重要な用件があるといえばあった。
そのために急いだのだ。途中で思わぬ事件というか事故に遭って、ちょっと痛い思いをしたりもしたが、脚とお尻の痛みも我慢してここまで来た。
でも、絶対に今日でなくてはならないというわけではないし。明日また来たって構わない、ので。
「わ、わかりました……」
どこの誰かわからないけど、明日はこの人がいないことを祈ろう。
……だけど、嫌だな。そんなことを思うのは。逃げたって仕方がないのに。
すっかり落ち込んだアリヤは、諦めて早々に踵を返した。けれどもそのまま三歩も離れないうちに足を止めることになる。
彼女の鏡色の瞳に、あるものが映ったからだ。
通りを挟んだ向こう側。ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる、手にかごを提げた美しい女性の姿。
長い髪は丁寧に編み込まれ、
華美な装飾品など身につけていないのに、まるでどこかの王妃か姫君のような貴い気品に包まれたその人は、見惚れているアリヤと目が合うなり微笑んだ。
途端にアリヤの心がさぁっと晴れる。垂れこめていた黒い雨雲たちが飛び去って、満開の花畑の上に青空が広がったような心地がした。
彼女は、魔女。
名前は知らない。歳もわからない。どこから来た人なのかも、誰も知らない。
とにかくずっとずっと昔からこのザーイバの街にいて、小さな薬屋を営んでいる、アリヤが知るかぎりこの世でもっとも素敵な女性だ。
「こんにちは。今日はおひとりですか?」
「こ、こんにちは、魔女さん! えっと……」
「他のは全員追い返した。……なあ、まさかと思うがこの――」
「ええ、そのまさかにしましょう。セディッカ、お客さまをお通しして、お茶を淹れてください」
「……ったく……」
魔女はおっとりとした口調で、しかし有無を言わせぬ不思議な迫力を湛えながら少年に命じた。彼はしぶしぶという態度を崩さないまま溜息でそれに応える。
そう、ふたりの関係などわからずとも、それが命令であることはなぜかアリヤにも感じ取れたのだ。
ということは、やっぱりこの人は助手か店員とかなんだろうか。
セディッカと呼ばれた少年はあからさまに嫌そうながら、戸口を塞いでいた身体を退けた。
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