見習い少女は傷だらけ

空烏 有架(カラクロアリカ)

第一幕 ✴︎ ずたぼろ少女の一念発起

01/「言わんこっちゃない」

 四方を砂漠と荒野に囲まれた、オアシス都市ザーイバ。街の象徴シンボルでもある大きな寺院モスクの屋根が、眩いほどの夏の陽射しに照らされて、今日も美しい紺碧色に光り輝いている。

 その荘厳さを際立たせるように、周囲に広がる日干し煉瓦造りの街並みは鮮やかな赤銅色だ。

 寺院のある中央広場を起点にして、大通りが街の東西へと延びている。街路には今日も大きな葉をこんもりつけた並木が、砂漠から吹き込む渇いた熱風に遊ばれて、ざくざく賑やかに歌っていた。


 その昼下がりの通りを今、小走りでぱたぱたと駆ける少女の姿がひとつ。


 この地域ではありふれた小麦色の肌。民族衣装を原型とする、白い上下に袖なしの藍色の上着で構成された、近隣の女学校の制服に身を包んでいる。

 肩からは指定の革の鞄を提げて、時間帯からすると学校帰りなのだろう。

 首のうしろに金褐色の太いおさげ髪を二本ふわふわ揺らして、彼女は何やら急いでいるようす――だったが、並木の下を通りかかったところで、ふいに足を止めた。


 どこからか声がする。少女が見上げてみると、いびつにねじれた枝の上に、三色まだらの若い猫が一匹ちょこんと座っていた。

 身体をまるめて小さくなりながら、恐々といったようすで地上を見下ろしている。


「あらら、下りられないの? ちょっと待ってね……えーっと……あっ。金物屋さーん!」

「はいね? あら、アリヤじゃないの」

「こんにちは。ちょっとそれ借してもらえませんか? そこで猫ちゃんが困ってて」

「ああ、構わないけど気をつけてよ。あんたって何かと……」


 近くの商店のおかみさんに梯子はしごを借りて、アリヤと呼ばれた少女は猫の傍まで上がった。けっこうな高さだというのに怖がりもせず、猫だけを見ながらスイスイ登っていくものだから、むしろ見ている側のほうが冷や冷やしているくらいだ。

 彼女は慣れたようすで怯えた獣をひょいと抱き上げる。意外に猫は暴れることもなく、大人しくその腕に収まった。

 ――そこまでは良かったのだが。


「……わっ!?」


 梯子が傾いたか、はたまた足を滑らせたか――傍からはそのようには見えなかったが、アリヤは下りる途中で急に平衡感覚を失って転げ落ちたのだ。

 猫は腕から飛び出してぴょんと着地した。けれど人間にその芸当は難しいので、少女は盛大に尻もちを衝く。


「いったぁ……あー、びっくりした」


 不幸中の幸いで、倒れた梯子は彼女の上には落ちなかった。頭や首を打たなかったことも幸運と言っていい。怪我はせいぜい手肘の擦り傷と、何個所か痣を作ったかもしれないが、いずれも応急手当で済む程度だ。

 それでもなかなか派手な音がしたので、金物屋のおかみさんどころか、通りにいたすべての人が足を止めて振り返った。


 周囲のざわつきで衆目を集めてしまったのに気づき、さすがに恥ずかしくなったらしいアリヤは頬を赤らめる。


「大丈夫かい!? もう言わんこっちゃない」

「えへへ……ありがとう、平気だよ。こんなの慣れてるから」


 大きな音を立てたにも関わらず、猫はその場に留まって彼女をじっと見つめていた。まるで心配しているように。

 少女は猫に向けてもう一度、大丈夫だよ、となるべく明るい声音で言う。


「とにかく猫ちゃんは無事だし、梯子……も壊れてないみたい、よかった」

「そんなのより自分の心配をしなさいよ」

「いいのいいの。じゃあ、わたしもう行くね」

また・・転んじゃいけないから走るのはやめときなさいよ。ところでどこに行くの?」

「魔女の薬屋さん!」


 満面の笑みで答えたアリヤは、おかみさんと猫に見送られながら、迷路のような裏道へと歩いていった。




∵…✴︎…∵・…・✴︎・…・∵…✴︎…∵

  見習い少女は ✖︎ 傷だらけ

∵…✴︎…∵・…・✴︎・…・∵…✴︎…∵




 ――ひとつ。

 妖術師は夢を見た。

 決して叶わぬ、儚い夢を。


 ――ふたつ。

 人の世が始まって以来、これはありふれた空想だった。誰もが一度は切望し、何百何千の先達が幾度となく挑んでは、ついに叶えることなく諦めてしまった。

 けれど彼は思考を止めない。進み続ければ、いつか辿り着けると信じていたから。


 ――みっつ。

 永く修練と研鑽を続け、探究と熟考と試行錯誤を果てしなく重ねて、妖術師はとうとう掴んだ。夢を叶える術を得た。

 それは道理をねじ曲げ、因果律を踏みにじり、不可能を覆す魔法の式。


 ――よっつ。

 妖術師は数え上げていく。大望を果たす術式に組み込むために、この手でかき集めてきたものたちを。

 犠牲は問わない。非難は聞かない。

 何をどれほど失おうとも、誰に何と罵られようとも、今さら走り出した脚を止めて振り返ることなんて不可能だ。毒を食らわば皿まで、もはや最後までやり遂げてしまうほかない。


 ――あとひとつ。それで完成する。


「尋ねるまでもない、そなたは頷くまいな。……それも構わぬ」


 最後の柱を得るために、彼は旅立つ。


 温かな我が家などとっくに捨てた。そんなものは必要ない。ここは大それた願いのためだけに、妄執と呪いで綴った庵。

 光は差さず、獣のほかに訪ねる者もいない、暗く虚しい岩宿だ。

 固く冷たい床は誰のことも憩わない。壁は苔生こけむして露に凍え、青白い鍾乳石ばかりが牙のように林立している。


 さあ、因果を焼き落とす業火を熾せ。

 悲嘆と哀寂の泉を湧かせ。

 野望のは重く実って、枝を折らんばかりにしならせよ。

 そして何者もここより逃れられぬよう、庵の四方には嵐の格子を巡らせるのだ。


 あと、ひとつ。

 最後は光。

 かのくらき国への道を照らす、眩い一閃を、手に入れる――……。



 妖術師は夢を見た。

 決して叶わぬ、愚かな夢を。



 →

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る