第2話 夜のおさんぽ

 乗っていた路面電車を蔚山町うるさんまちで降りた。

 車道のまんなかにのぼりとくだりのレールが平行に敷かれていて、その両脇にレールに沿って長く伸びた停留所がある。日はとうに暮れ、昼間はくすんで見えるガソリンスタンドが今は暗黒をただよう宇宙船のように輝かしい。屋根もないコンクリートを打っただけのホームに降り立つと、うすいピンクの花びらが足首に張りついた。レールにたまった桜の花びらが夜風に舞っている。

「ニコプチ、ニコプチ……」

 停留所で信号が変わるのを待ちながら、五年A組のクラスメート雨宮蘭はぶつぶつつぶやいた。わたしとランは健軍町にある熊本バレエ研究所に通っている。といってもバレエを習っているのはランだけでわたしはつきそいだ。去年までランは子どもクラスに通っていたが、この春から大人クラスに変わって帰りの時間がおそくなった。

「よし」

 信号が変わるとランはダッシュした。ガソリンスタンドのとなりのコンビニに雑誌を買いに行ったのだ。

「バイバイ」

 ポニーテールを揺らして走る親友の背中に手を振り、わたしはランと反対の方向に道をわたった。

 今日は平成二十八年四月十四日。時間は今二十時ちょうどになった。

 さっき停留所で花びらにまといつかれたとき、とっさに「そうだ、これから夜の桜を見に行こう」と思いついた。わたしは積極的に行動するタイプではないけれど、今日学校で殺人未遂のおそろしい現場を目撃した。その血なまぐさい記憶を桜で祓いたかったのかもしれない。ともかくそんなことを思いつかなかったらなかったはずだ。

 その夜からはじまる、胸躍る大冒険の日々は。


 桜を見に行く前に寄り道をした。

 電車通りを離れ、YMCA脇の急な坂を登った。真っ暗な坂を登っていると、ミツバチみたいに星々がまたたく夜空に向かって、シャープな影がそびえているのが見えた。あれは照明塔だ。あの塔の足もとに藤崎台球場がある。

 たどり着いた野球場のまわりに、人は一人もいなかった。今日から五日後の四月十九日ここでプロ野球の巨人対中日戦が行われる。熊本ではひさしぶりの公式戦で、だから今夜も関係者が大勢いるだろうとそのにぎやかさを楽しみにきたのだが当てが外れた。球場の向かいにある護国神社の白い幟が夜風にゆっくり揺れている。わたしはきびすを返した。

「……」

 歩きはじめてすぐ足を止め振り返った。田舎特有のぶあつく濃い闇が目の前に広がっている。

 わたしはふたたびきびすを返した。

 そして闇の奥に向かって歩き出した。


 短い坂をおりると正面に熊本博物館があった。

 すでに十七時に閉館していて、街灯がない博物館前の路上は球場まわりよりもっと暗い。昼間はここにタクシーや仕事をさぼったサラリーマンの車がたくさん停まってるが、今は一台も停まってない……と思ったとき気がついた。

 神社側の石壁に寄り添い、赤いコンパクトカーが一台ぽつんと停車している。

 停まっているのはイタリア車のフィアット500だ。足音を忍ばせ近づくと、ふいに車内灯がついた。二人の女性の姿が見えた。後部座席を倒し、フルフラットにしたシートで足を伸ばしている。車はこっちを向いているが二人は座席を背もたれにして向こう向きに座っている。会話する二人の横顔を見て、危うく声が出そうになった。

(さゆり先生)

 自分のクラスの担任教師がそこにいるのに気づいたとき、車内の明かりがまた消えた。暗くて中のようすはまったく見えない。わたしは耳を澄ませた。

「気分はどう?」

 ハスキーな大人っぽい女性の声が聞こえた。聞き覚えがある。これは半藤美津子さんの声だ。美津子さんは宗教関係の本を出版する半藤出版の若き女社長で、持ちビルの半藤ビルが本城小学校のとなりにあった。いつも黒いパンツスーツを着て颯爽と歩く美津子さんだが、さっきチラッと明かりがついたときは上着を脱いで白いシャツ姿になっていた。日本人離れしたプロポーションの美人でアメリカの女子プロゴルファーのように手足が長い。胸も大きい。「峰不二子みたいだ」と彼女を評する人もいる。

「さっきはびっくりしたわ。青ざめた顔で運転席のわたしに寄りかかってくるんだもの。あわててシートを敷いたけど気分はどう?」

「ごめんなさい」

 もう平気とさゆり先生はいった。

「学校であんなことがあったからショックで……もう大丈夫」

「よかった。こんなふうに横になってあなたとおしゃべりするのは学生時代以来ね。なつかしいわ。ねえさゆり知ってる? わたしたちがいっしょに暮らしたあのマンションだけど今は……」

「美津子」

 ん、と美津子さんのくぐもった声が聞こえた。 

 しばらくすると今度はぴちゃぴちゃと、ネコがミルクをすするような音がした。ぴちゃぴちゃという音は五分以上も続いた。

「……だめよ」

 美津子さんの声はさっきより熱っぽく潤んでいた。

「これ以上はだめ。わたしたち、もう終わったのよ」

「今夜だけ。今夜だけだから」

 さゆり先生の鼻息がハアハアと荒い。

「ねえいいでしょ? あなたもうこんなになってる」

「やめなさい。やめて……」

 またぴちゃぴちゃと音がした。ときおり美津子さんが「ん」と切なそうにうめく声も聞こえる。

「ずるいわ」

 こちらもハアハア荒い息を吐きながら美津子さんがいった。

「わたしの弱いところばかりさわらないで……あ……」

「どうしたの? いつものようにかわいい声で泣いていいのよ」

「さゆり」

 美津子さんは必死の口調でいった。

「学校で男が手錠をかけられたのね? さゆり先生はそれを見て興奮したの?」

「……」

「むかしのように、またわたしを縛りたくなったの?」

「……そうよ」

「いいわ」

 スルスルと、衣擦れらしい音が暗闇に流れた。

「このネクタイで、わたしを縛って」

 さっきまでとは打ってかわって、美津子さんの声は穏やかだ。

「いいの?」

「ええ」

 またスルスルと衣擦れの音がする。カチャリと固い音もした。

(先生が十字架のネックレスをはずした)

「縛ったわ。もう逃げられないわよ」

 さゆり先生の口調が急に厳しくなった。

「今夜はあなたを本気で責めるけど、覚悟はいい?」

 先生の問いかけを聞いた美津子さんはゴクリと唾を飲み込み、かすれた声でこういった。

「好きに、して」

「美津子」

「なに?」

「わたし、変態と思う?」

「思うわ」

「わたしのこと嫌い?」

「大好きよ」

「ああ、美津子」

 またぴちゃぴちゃと音が聞こえる。

 そのとき風が吹き、路上にたまっていた花びらが宙を舞った。

(そうだ桜を見に行くんだ)

 わたしはようやく本来の目的を思い出した。

「そこだめ……あ……」

 車から離れるとき、美津子さんのそんな声が暗闇に流れた。

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