別れのご挨拶はさようなら、ではなくまたね

 私のクリスタルのような瞳から潤滑液がポロポロと零れ落ち、マックスの服に小さなシミを作ります。


 マックスは私の背中をポンポンと叩き、優しく私の名を呼びます。まるで、お父様がアーディ様を呼ぶように。


「アーデルハイドちゃん」


「なんですか」


「君の名を呼ぶのは、俺じゃだめかな? お父様が亡くなってからの10年間、誰か君の名を呼んでくれた?」


「いいえ」


 私は敢えて1つ目の質問には答えません。私にとって一番はマスターであるダーゼン様に名を呼んでもらうこと、それは確たる真実です。でも少しだけ、少しだけ、マックスにアーデルハイドと呼ばれるのも悪くありません。でもだからと言ってマックスがダーゼン様の、お父様の代わりになるなんていうことは、ありえないのです。


 私は2つ目の質問にいいえで答えます。


 マックス以外にここを訪れるのは、小鳥や虫達、それにタンポポの綿毛くらいのものです。


 だから一言、いいえと答えます。


 それがどちらの質問に対する答えなのか、それを言い添えないのは、私の無意識領域の演算のせいです。


「そう? じゃあ、俺が君の名を呼ぶよ、アーデルハイドちゃん」


 そう、マックスはきっとそんな浅はかな私の思考を理解しているのでしょう。どちらの答えなのか問いかけることもしませんでした。


 そして都合良く受け取って、私の名を呼んでくれます。マックスにとっても、私にとっても都合の良いように受け取って。


 魔導人形は、マスターを護るため以外には嘘を付きません。でも、真実を全て話さなくてはならない訳ではないのです。だから、ミスリードを促すような、わざと都合の良いように受け取らせるような、そんな小狡いこともできてしまうのです。


 アーデルハイドは悪い魔導人形になってしまったのでしょうか。


「アーデルハイド」


「ん? どうしたの?」


「アーデルハイドで良いです。お父様はアーデルハイドと呼んでくれました」


「うん、でもダーゼンさんと同じように呼んでも良いの?」


「アーデルハイドは、もう一度お父様に名前を呼んでほしい。でも、でもきっとそれは叶わない願いなのです。だから、代わりにマックスが呼んでみて。

 アーデルハイドと呼ばれたら、きっと私はお父様に呼んでいただいた時の幸せを、温かさを思い出すと思うのです」


 アーデルハイドは魔導人形。


 決してその記憶を失うことはない。


 なら、忘れていないのだから思い出すもない。


 でも私はマックスにお願いしました。


 だって、覚えていても、少しずつ少しずつ、魔力炉が冷えていくから。


「アーデルハイド」


 ああ、魔力炉に灯がともる。


 私の魔力回路が温かさで満たされていく。


 頭脳は覚えていても、ボディは温かさを忘れていくのだろうか。今、私の体がお父様に初めて名前を呼んでもらった時の喜びを、最後に呼んでもらった幸せを再び思い出す。


「ありがとう、マックス」


 マックスも名前を呼ばれたら、幸せを感じるのかな。お返しに心を込めてマックスの名前を呼びました。


 マックスは私を抱きしめたまま、頭を優しく撫でました。


 私はすかさずマックスを突き飛ばしました。


「えええー?」


 撫でられると少しだけ悪くなかった気がしましたが、私は気付いてしまったのです。


「お父様にも撫でられたことなかったのに!」


「殴られたみたいな言い方しないで!」


 初めて撫でられるのは、やっぱりマスターが良いのです! 当たり前です、当然なのです。マックスはデリカシーがありません。ハラスメント行為です。


「撫でられたこと無かったら、嬉しいもんじゃないの…? 分からない、女の子って難しい…」


 マックスは膝をついて項垂れています。ワンコのようです。見たことありませんけど。


「マックスはデリカシーが無いからモテなさそうです」


「し、失礼な! モテなくないかも知れないだろ!」


 モテると言い切れないヤツはモテないヤツだと、私の中のアーディ様が言っています。


「モテると言い切れないヤツはモテないヤツです」


「ぐっ!」


 流石、アーディ様。とてもクリティカルな寸評だったようです。


「まあ、私はマックスのことは嫌いじゃないですよ」


「ほんと?」


「はい、唯一のお客様ですし。別に招いてませんけど」


「ご迷惑おかけしてます。でもさ、一言余計じゃない?」


「わざとです」


「あっ、アーデルハイド、笑ってる!」


「笑ってる…? 私は笑っていますか」


 マックスは何だか嬉しそうに笑います。笑っているのはマックスではないですか。


「笑ってるよ。とっても可愛い。良かった、アーデルハイドが笑ってくれて」


「笑っているのはマックスです」


「俺も笑ってるけど、俺が笑ったのは、アーデルハイドが笑ってくれて、とても嬉しくて幸せな気分になったからだよ」


「分かります!」


 それ! とてもよく分かります。だってお父様が笑ってくれた時、とっても嬉しくて幸せな気分になったのです。でもそれはお別れの時でもありましたから、悲しみと淋しさで私の魔力炉が壊れそうなほど軋みをあげて、温かいのか冷たいのかよく分からない状態でしたけど。


「私もお父様が笑ってくれた時、生まれてきて良かったと思いました」


「そうだよね。大事な人が笑ってくれると、とても幸せになるんだ」


「私は、マックスにとって大事ではないでしょう?」


 私は分かりませんと小首を傾げました。


「もう大事な人になったよ。とっても純粋でとっても繊細で、とてもとても愛情深い、優しいアーデルハイドの事が、俺はとても気に入ったんだ」


「とてもが多すぎます」


「あはは、そうかも」


 マックスが笑うと私はポカポカしてきました。嬉しいという感覚だとアーディの欠片が教えてくれます。マックスこそ情の深い優しい人間なのでしょう。


「私も、マックスが気に入りました」


「本当? 嬉しいよ」


「また来てください。お花と小麦か野菜の種と、できればお父様のお好きな紅茶を持って」


「ああ、必ず」


「なら、私は春にタンポポを集めて、マックスにタンポポコーヒーを淹れて差し上げます」


「紅茶じゃないんだ?」


「紅茶はお父様のためのものですから」


 私に差し出せるものは私が手に入れたものだけ。紅茶だって薪だってお父様の物。私は何も持っていないのです。だから、私はマックスを饗すためにもう少し多く野菜を作り、ハーブを育て、タンポポを摘みましょう。


 外の世界では粗末な饗しであることでしょう。でも私にできるのはそれが精一杯なのです。


「そっか、じゃあタンポポコーヒー楽しみにしてるよ。お茶菓子は俺が用意しておくね」


「あら、良いのですか?」


 砂糖は少し残っていますが、小麦粉はもうありません。小麦の種籾はありませんでしたので、栽培もできません。なのでお菓子を用意するのは難しいのです。


「もちろん。あ、今度は仲間も連れてきても良いかな?」


「うーん、まあ構いませんが、私にできるお饗しはハーブティかタンポポコーヒーが精一杯なのです」


 お父様のお屋敷を預る者として少し恥ずかしいことですが、正直に伝えておきます。


「それで十分だよ」


「良かった」


 思わず言葉が零れ落ちました。マックスの来訪をとても楽しみにしているみたいで少し恥ずかしいです。


「もし、アーデルハイドが良ければ、俺と一緒に…」


 私は無言で首を振ります。


 その続きはきっと私にとって嬉しくて淋しくて悲しいものだと思うのです。


 私はお客様の好意を無碍にしたくは無いので、その続きは口にしてほしくありませんでした。


「そっか」


 マックスはそろそろ旅立つようです。


「そろそろ行くよ。仲間が心配しているだろうし」


「そうですね」


 今日は抜けるような青空です。今なら迷うこともないでしょう。きっと旅立つには良い日。


 それでも少しマックスが心配になりました。スノーウルフに追われていましたし。きっとマックスは弱っちいのです。


 マックスが剣を取りに小屋に戻っている間に、私は自分に言い訳をしながら、あるものを屋敷から取ってきました。


「これを持ってお行きなさい」


「これは?」


「これは私が作ったお薬です。もしあなたか、あなたの大切な人が病に倒れたとき、あるいは大怪我を負ったとき、きっとそれが助けになるでしょう」


 その小さな瓶の中の煌めく液体は、確かに私が作ったもの。でもその小さな瓶はお父様の持ち物。勝手に人に渡してしまうことに葛藤を生じてしまう。


 でもこれはきっとマックスに渡すべきもの。


 それは龍穴の井戸水に、その清水で育てた稀少な薬草を浸し、満月の光とともに私の魔力と龍脈の力を一晩中注ぎ込んだ、月と大地の雫。


 ヒルダ様とアーディ様を助けられなかったお父様の、そしてお父様を助けることができなかった私の想いが込められた一雫。


 お父様が夢想し何度も何度も試行錯誤を繰り返しても遂に作り上げられなかった秘薬。そしてそれを引き継いだ私が、お父様が創り上げた世界で唯一の魔導人形としての力と特性をも費やしてやっと辿り着いた、私達の想いの欠片。


 それでも死者は蘇らない。


 なら、生者に私達の想いを託そう。


 私の少しだけお気に入りのマックス。お父様以外で私の名を呼んでくれた唯一の人。あなたに、この想いを託そう。


 少しだけ大事な人になったあなたが、大切な人を失わないように。私達と同じ悲しみに暮れないように。


「ありがとう、アーデルハイド」


「いいえ。こちらこそ、ありがとう、マックス。またの来訪を楽しみにしています」


「ああ、必ず来るよ」


「ええ、いつまでも待っています」


 もうあなたがここを訪れることは、きっと無いでしょう。


 もう二度と会えなくても、私はあなたを忘れない。


 どうかこの愉快で優しいこの人に幸せが多からんことを。


 どうか私を大事と言ってくれたこの人に悲しみが訪れませんよう。


「さようなら、マックス」


「違うよ、アーデルハイド。また会おうだよ」


 そうですね。


 もしまた会えたなら、きっととても嬉しくて楽しくて幸せな気持ちになれるのでしょう。


 だから、私はそっと願いを込めて別れのご挨拶をあなたに送ります。


「マックス、またね」


「ああ、また、な」

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