第21話

 シンガポールへの渡航を週末に控えた12月のある日。インターンを控えながら卒業を待つだけという広木は、通学の頻度がそれまで以上に疎らになることを利用して平日の日中にも派遣の仕事を入れては、空いた時間を小遣い稼ぎに勤しんでいた。光回線のモデムの入った紙袋を手に提げて店頭へ立つ仕事は基本的には週末の人の出入りが見込める時で、そういった時以外は出来るだけパソコンを利用したデスクワークを選んだ。

 この日は愛の地元でもあるS市のとある製菓メーカーの支店のオフィスが派遣先であった。ハガキの束を机の上に積まれ、その送り主の住所や氏名をアドレス帳に活用しているアプリケーションへ只管登録するという単純作業だった。データの入力自体は内容次第で微妙に変化があってそう苦ではないのだが、ハガキを一枚ずつ抜かさず捲るといった指先の動作や、途中で手を止めた後に再開する際の何処まで進めていたかを確認する細かな作業に、思っていた以上に神経を使った。

 10時に現場入りした広木は、12時きっかりに鳴りだしたチャイムを合図に席を立つと、「学校かよ」と思いながらオフィスの入ったビルの向かいのイタリアンの店で食事を取った。広木自身も生まれ自体はこのS市で、弟のリョウが産まれるまでは市内の借家に両親と3人で住んでいた。この駅前も母親に連れられて出歩いていた記憶が微かに残っている。ナンパに明け暮れる夜は何処の通りともなく当てなく歩き回るのであったが、大人になって自分の意思で昼間にこの繁華街を出歩くのは滅多にないことだった。昼食をとったイタリアンのランチもローカルにしては1000円を超える価格設定に驚いたが、よくよくうかがうと有名なシェフ名が店の名前にサブタイトルの様に記されていた。新幹線の駅も要するS市はかつては県内でも有数の規模を誇る街ではあったが、今では商店街は昼間もシャッターが下ろされた店の方が多かった。県内では人口をそれなりに有する街も何処も一向にこのように寂れた様子だった。


 一通りの仕事を15時過ぎに終え、担当者にその日の作業のチェックしてもらう。OKをもらうと車で5分の場所にある派遣元となるオフィスへと向かった。その日の日当を受け取りながら、担当者からは「意外に時間がかかったね」と皮肉を言われた。あれだけのハガキの山を消化するのに流石に昼前の2時間だけでは無理だろうがと言い返しそうになったが、初対面の際に世代は違うが実は地元の先輩なのだということが分かり、共通の知人に迷惑をかけることがあると面倒だと思い、作り笑いで返してその場を引いた。ロン毛まではいかないが何カ月も髪を切らずにむさくるしい風貌のその担当者の男性は、オフィスの他の若い女性スタッフ達に対しても、何処か先輩風を吹かしたような物言いをしては、冗談の掛け合いのようなやり取りの中で、時折りダジャレのようなボケをかました。

 日当を受け取ったその足で新譜のアルバムCDを買い、車に戻るとエンジンを掛けながら愛への連絡を入れた。そういった行動の節目でお互いに連絡を入れ合うのも自然な形で定着していた。

「今日はいつもと違う派遣先で早く終わったよ。日当はいつも通りだから得した気分だ。そのままCD買っちゃったけど…」

「さっき起きたところ。今日も夜出勤だよ。嫌だなぁ」

「仕事まで家でゆっくり過ごすと良いよ。体調悪いの?」

「何だか気分が浮かなくて」

「最近ずっと続いているね。気晴らししている?」

「してない。ずっと家と仕事の往復しているだけだから」

「時間が作れれば何処かドライブにでも連れて行くのに」

「うん、ありがとう。その内ね」


 このようなやり取りを続けるが、きっと愛と外で会うのも適わないのだろうと、帰路につきながら赤信号のタイミングでメールのラリーを続けた。渡航を前には一度自腹を切ってでも店に足を運んでおくかと思うが、きっと誘いには乗って来るだろうマサにこちらから誘いを持ち掛けるのは何だか釈然としなかった。マサも一通りの女の子を指名して、わざわざ店に足を運ぶ気にもならないかも知れない。仲間内ではその店に足を運ぶ一過性のピークも既に越えていた。

 帰宅した広木は、仕事から帰ったばかりの母とそれとなく言葉を交わし、隣の祖父母の家へと顔を出した。祖母が夕飯の仕度をしているのをダイニングテーブルでその後ろ姿を眺めながら他愛もない話をしていた。祖父は居間で時代劇の録画を見入っている。年齢のこともあるので姿勢は良くないが背中はピンとしていた。手元では愛とのメールのやり取りが続いている。

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