Episode 1

第13話

 就職を兼ねての上京を1ヶ月半後に控えた広木はシンガポールのMRTドーヴァー駅から歩いて10分ほどの、シンガポールポリテクニックのスタッフ寮の一室にいた。

 滞在期間もそろそろ2ヶ月が過ぎようとしている。生活に慣れたというよりは、そっとしておいてくれる居場所をどうにか見つけ、自分の都合でマイペースに日々を送っているというに過ぎない。

 英語を使った生活を就職前に経験出来ればと、学校が現地の日系メーカー企業と話を付けてくれ、広木を学年で一人海外でのインターンに送り出してくれた。

 就職までの限られた貴重な時間であったが、自ら望んで地元の馴染みと過ごすではなく、海外に身を置くという選択をした広木であったが、何処へ行ってもその場違いさ加減を思い知らされては追いやられるようであった。一人の時間は好きであったが、海外で不慣れな生活が続いているからか余計に、たまには後腐れのない無難な相手と気軽にSEXくらいはしたい。地元の馴染みとダラダラ過ごしていれば、毎晩駅前に繰り出してナンパをしては女友達が増えたことだろう。人間関係や地元の不良グループとのヒエラルキーにも悩まされるようなこともなく、何不自由なく学生生活を送っていた広木であったが、色気付いてしまってかこうして単身海外に渡っての生活に手を上げたことを幾分後悔していた。孤独に苛まれてか、インターン先の現地スタッフ達との折り合いに悩み始めてからか、いつしか広木は夜が更けても眠りにつくことが出来なくなっていた。医者からの診断結果は案の定不眠症だった。Insomniaというキーワードを自分の人生の中で会話に出て来るなどとは思いもしなかった。通常であれば、せいぜい歌の歌詞などで見掛けるくらいのものだ。


 深夜にも関わらず、リビングの壁にテニスボールを幾度となく投げつけては、返って来たそれをまた掴んで壁に叩きつける。ピッチャーが振りかぶって投げるように、頭上から弧を描いた腕を前足の膝をすり抜けるように振り下ろすと、綺麗なストレートを投げることが出来た。満更でもない広木は、ああでもないこうでもないと、自分の身に降りかかったあれこれを頭の中で自分なりに消化しながら、その反復動作を繰り返していた。

 幸い今はこの部屋には広木しかいない。ルームシェアをしているドイツ人のフローは彼女とタイへ旅行へ、フィンランド人のユラは行方不明になったと思いきや、フローが旅へ出る少し前に同じくタイで元気な状態で身柄を確認されたという知らせを受けていた。ユラはそのままこの部屋には戻って来なかった。独り言を言いながら食後に何か分からない錠剤を服用しながら、不安定なキャラクターが不気味なユラであったが、蚊に噛まれた腕を搔きむしりながら時折り広木の方に「Maybe, Ninja...」と、きっと忍者の仕業に違いないと冗談を漏らした。


 フローが言うには、広木がこの部屋にやって来る前はスペイン人の学生が同じように滞在しており、広木と入れ違うように留学期間を経て帰国して行ったのだという。英語が堪能なフローは、シンガポールでの生活もまるで自分の国のように謳歌していた。少なくとも広木の目にはそう映っていた。授業を早く終えた日には、この後は部活のトレーニングなのだと部屋へ着替えに戻り、陸上用のスパイクの入ったシューズケースを手に提げては出て行った。

 よく言われがちな、日本人とドイツ人は一緒に仕事をすると上手くやる、といったくだりを広木も耳にしたことはあったが、フローと生活を共にしているとそれへの理解は難しくなかった。

 しばしば休日の昼前に広木とユラが散らかったリビングで談話をしていると、もくもくと掃除機をかけるフローの姿があった。アバウトな性格のユラと割と日本でも神経質な方の広木との共同生活を送る中で、フローは他のメンツにそれらを同じように求めることもなく、もくもくと生活するのに必要なハウスワークを熟していた。フローがそれを始めるのを合図に広木も自分の荷物を部屋へ片付けたり、一緒になってフロアにモップ掛けをしたりするのだが、ユラは面倒くさそうにソファから身を上げはするものの、部屋の中を掃除の邪魔にならないようにうろつきながら、ブツブツとフィンランド語で独り言を漏らしていた。

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