第7話 夢

 目を開くと、薄暗い部屋の布団の上だった。

 わずかに香る畳の匂いに溶け込んだ、甘くとろけるような香りが鼻孔をくすぐる。


 ――俺はいつ寝たんだっけ?


「一ノ瀬さん……」


 不意に、近くから囁くように名前を呼ばれる。


 そちらを向くと、薄い藍色の浴衣を着た九条さんが瞳を潤ませ、艶めかしい表情でこちらを見ていた。


「なっ――⁉」


 そして気付けば俺は全裸。

 掛け布団もなくなり、素っ裸の状態で彼女にすべてを曝け出している状態だった。


 なぜか身体は動かず、視線すら九条さんに固定され、他に向けることが出来ない。


 ――な、なんだこれ⁉


 そんな俺に、九条さんは四つん這いでゆっくりと近づいてくる。


 その動きのせいで彼女の丸みある胸がゆらゆらと揺れ、下着を着けていないことも合わさり、薄い浴衣から零れ落ちそうだ。


 彼女が動くたびに足の部分もまくり上がり、薄暗い部屋のはずなのに白い太ももなどがはっきり見え、どんどんと煽情的な格好になっていく。


 見ちゃいけないと頭でわかっているのに身体は言うことを聞かず、彼女の淫靡な身体を見てしまい、自分の意志ではどうにも出来なくなっていた。


 まるでこれが俺の願望だとでも言いたげに――。


「一ノ瀬さん……私、貴方の為ならなんでも出来ます」

「お、おい九条さん! 待て、ちょっ――!」


 蕩けるような瞳と視線が合う。

 浴衣の帯に手をかけ、これから彼女がどういった行動を取るのか手に取るように分かった。


「だって……一ノ瀬さんは私の恩人だから」

「俺にそんなつもりは――」

「どうか、私のすべてを見てください……」


 はらり、と布擦れの音とともに帯は外れ、彼女はそのまま俺にもたれかかるように抱き着いてくる。


「ぁ……」


 九条さんの柔かさと温かさが俺の身体を包み込み、彼女の瑞々しい唇がすぐ目の前に――。




「にいちゃ! 朝だよー!」

「うぐっ⁉」


 布団で寝ていると、小さななにかが勢いよく飛びついてきた。

 そのせいで変な声が出てしまったが、おかげで眠気は吹き飛び時計を見る。


「光太……昨日寝るの早かったもんなぁ」


 時計の針は六時前。

 すでにカーテンの外は明るくなり始めているくらいだが、部屋の中はまだ薄暗いくらい。


「とんでもない夢を見た……」


 クラスメイトの痴態を夢で見るなど、あまりにも彼女に申し訳ない。

 というか、正直最低だと思う。


「よっと」


 自己嫌悪に陥りつつも、とりあえず体を起こして光太をどかす。


「にいちゃ! おはよおぉぉぉぉ!」

「……おはよう。朝一から全力の笑顔のところ悪いが、もう少し寝させてくれないか?」

「や!」

「そっか……嫌かぁ……」


 今日からゴールデンウィーク。

 さすがに今日くらいはゆっくり寝ていたいと思っていたのだが、まあまた寝て夢の続きでも見てしまったら気まずいなんてもんじゃないからもういいか……。


 俺の上に再び乗ってきた小さな怪獣を持ち上げて、そのまま洗面所に。

 少しぼさぼさの髪に眠そうな俺の顔と、横でご機嫌な弟が並んでいる。

 顔を洗い、歯を磨き、気持ちも少しすっきりした。


 俺はいくつか用意してあるシリアルをテーブルに並べ――。


「どれがいい?」

「こちょわっか!」

「チョコわっかな。はいよ」


 冷蔵庫にある牛乳を取り出し、輪っかのシリアルに注ぎ込む。

 すぐに真っ白な牛級がチョコ色に変わり、光太の前に置くと、小さな手で大きなスプーンを使って必死に食べ始める。


「んんんー!」


 ――まるでこの世で一番おいしい物でも食べたかのような顔してるなぁ。

 

 テーブルに肩ひじを突いて、そんな小さな弟を見ながら俺もシリアルを食べ始めた。




 七時になると光太のお気に入りの戦隊番組が始まるので、俺はその隙に布団を片付け、洗い物を終わらせる。

 

『おおおおお! いけぇぇぇ!』


 隣の部屋から聞こえてくる弟の興奮した声に苦笑しつつ、自分のときはどうだったかと思い出し、子どものころに良い思い出はなくてすぐやめた。


「あいつは大きくなったらどんな大人になるのやら」


 そんなことを考えていると、家事が終わってしまった。

 本当はこのあと掃除機もかけたいが、さすがにまだ朝早いし隣の部屋や下の人たちに迷惑だろう。


「そういえば、九条さんは大丈夫か?」


 昨日は色々とあった。


 あのあと一緒に夕飯を食べ、隣の部屋に行くと大家さんが綺麗に片づけてくれた部屋があり、ぱっと見た感じ生活に必要なものも揃っているような状態。


 これならしばらく生活できるだろうと思ったが……。


「食料なんかはなかったよな」


 飲み物は水道水で凌げると思うが、食べ物はないのは不味い。


 九条さんは身一つで勘当されたせいで、お金も持ち歩いていない状態だから、なにも買えていないはずだし……。


「……心配だ」


 いちおう今日からしばらく、大家さんには日当の貰えるアルバイトを紹介してもらう予定になっているが、そもそも今の彼女の家にはなにもないのが問題だ。


「朝飯、こっちで食べるように言っとくか」


 スマホも持っておらず電話もない状態の九条さんに連絡を取る手段は、直接行くしかない。


 隣の部屋を見れば、光太はまだテレビに夢中だった。

 今のうちにそっと部屋を出てしまおう。


「……」


 外に出る。

 春と夏の境目のこの時期、ひんやりした風が顔に触れて気持ちいい。


 徒歩で数歩……それが今の俺と九条さんの距離。

 つい先日まで話もしたことのないクラスメイトと、こんな関係になるとはあの時は思いもしなかった。


 インターホンを鳴らす。

 当たり前だが、俺の家になるものと同じ音のそれは、家主が起きていれば必ず気付くものだが、もしまだ寝ているなら後で来ればいい。


 そう思っていたが、部屋の中から少しバタつく音が聞こえ、どうやら起きていたようだ。

 少しして、鍵が開くと音とともに扉が開き――。


「あ……一ノ瀬さん!」

「よう。おはよう。元気だった……?」


 俺の言葉はそこで止まる。

 大家さんが用意したのか、元々あったのか……九条さんが薄い浴衣姿で出てきたからだ。


 その姿まるで今朝の夢の姿のようで――。


「っ――!」


 つい、淫靡な姿の九条さんが脳裏にフラッシュバックして視線を逸らす。


「はい、おはようございます。どうされたのですか、こんな朝早くから?」

「……」

「一ノ瀬さん?」


 ――着物のときは結構生地が厚かったが……。


 学校で制服姿のとき、彼女の胸は平均より明らかに大きく、男子たちの話題の種だった。


 そして今、薄い生地の浴衣ではシルエットがはっきりわかるくらい強調されていて、ほんの少しはだけたせいであまりよろしくない状態。


 少し歩くだけでも大きく揺れ、夢を思い出したせいかどうしても視線が追いかけそうになる。


「とりあえず……朝飯もないでしょ。こっち来たら?」

「あ……ありがとうございます」


 そうして九条さんはそのまま外に出ようとして――。


「ちょ、ちょっと待った!」

「え?」

「とりあえず着替えよう。話はそれからだ」


 ふと、彼女に着替えはあるのだろうかと思ってしまう。

 たしかに大家さんのおかげで部屋と必要な物はだいたい揃っているが、さすがに彼女にぴったり合う服などあるわけがない。


 なにより問題なのは、一歩踏み込んだだけで揺れた胸から推測される。おそらく着けられていないであろう下着……。


 夢で見た様に、この姿の九条さんに迫られたら俺は――。


「あ、あの……」

「あ……」 


 いらないことを考えてしまい、すぐに視線を上げたのだが、もう遅かった。


 顔を真っ赤にして俯く九条さんの姿。

 どうやら俺がなにを考えているのか、なんとなくわかってしまったようだ。


 身体を隠す様に浴衣をきゅっと閉じるのだが、その姿すら色気が増したようにしか見えず、今の彼女を見て冷静になれる気がしない。


「着替え……ある?」

「……いえ」

「……じゃあとりあえず、シリアルと牛乳持ってくるから、自分の部屋で食べてもらってもいいか?」

「そう、ですね……」


 お互い視線を合わせられず、歯切れの悪い言葉。

 俺は一度部屋に戻り、シリアルと牛乳をもって九条さんに渡す。


「ありがとうございます」

「ああ……あと、とりあえず昨日の着物に着替えたらまたこっち来てくれるか?」

「わ、わかりました……」


 彼女の新しい生活は始まったばかりだが、どうやらやらないといけないことはまだまだ多くあるらしい。

 とりあえず一番最初にするのは、彼女が普段から着る衣類の確保からだろう。

 

 彼女だって、いつまでも同じ下着で生活をするわけにもいかないのだから。


「くそ、顔が熱い……」


 出来るだけ妄想をしないように意識しながら、俺は自分の部屋に戻るのであった。

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