第35話 家政婦はミタゾヨ『しるし』
ひさごやの帳簿には、やたら「X」がしるしに使われてた。
「…………」
「…………だから言ったろ、見合うかは知らねぇって。それでもってなら、その3倍の値段っての? 前払いにしてもらわないとな」
「あぁ、はいはい、前払いね」
そう言って、目の前で現金払いした。
目を丸くしながらもその金をしかと受け取ると、青年は話を続けた。
「いやさ、帳簿だけならまだしも、なんにでもなんだよ。どっかに届ける荷物の送り状も、届いた荷物の送り状も、郵便受けに入ってるただの手紙も、たまに客が店主に渡してくれって渡されるメモ紙も、本当にぜーんぶだ」
(ほぅ……となると、封しめの「〆」とは訳が違うようだね……)
「隠語と同じで、何かのマークだったのでしょうかね」
「わかんねぇ、付けない客もいるし、店の従業員も全員が使うわけじゃない」
「特定の人たちの間で使う、何かを意味する『しるし』だったのかもしれぬな」
「ばぁちゃん、ガザ入れでもするんじゃないだろうな」
「ガザ入れ……あぁ、いきなり突入していくことかね」
「そう、覆面捜査官みたいにな。あぁ、でもそれはもう無駄だぜ? ひさごやはもうとっくに店をすり替えてる」
「すり替えてる?」
「あぁ。店主も従業員も何もかも、だんごの製造業者も、茶の卸先も、ぜーんぶ、ごっそり変わってる。だから、今あの茶屋を掘ったところで何も出てこないぜ?」
はぁ、なるほど。
この青年がこうまで話せるのは、それもあったかもしれない。
裏の顔に仮面を付けたやつらは今や、もぬけの殻、あるのは箱だけというわけか。
しかし、ますます怪しいと思った。
それだけ繁盛した店がきれいさっぱり撤収――ではなく、ちゃんと別物で「ひさごや」をやってる。これじゃまるで、もともと表の顔しかなかった風の巧妙なカモフラージュじゃないか。
「味が変わった」「あっちに新しい茶屋ができたらしい」……と、今のこの閑散ぶりも、あの時人気を博した【だんご茶屋ひさごや】は今――なんていう世の”あるある”として紛れてしまう。
裏の顔の雲隠れさえも、閑古鳥にうまくカモフラージュされて、闇雲に紛れてしまう……。
「オモシロイ話だったな、ありがとう、青年。今日はここまでとしようかね。名をなんと言うんだい。わたくしは小園という」
「名前なんてあってないようなもんだ。とりあえず面倒だから通り名をいうけどさ」
「ほう、そうかい、それはすまなかったのぅ。そういうのに疎いもので。ゆるしておくれ。覚えておきたくてな。なんて通り名なんだい」
「ツバキ」
「……ツバ……キ? って……花の……椿かい?」
「あぁ、そうだ。なんだ、驚いたかよ。そりゃオレだって、最初は女みたいで嫌だと思ったんだけどよ……、まぁ覚えられやすいし」
「ほぉほぉ、良いではないか、椿。忘れまい、忘れまい」
照れくさそうにはにかむ青年。
「では、ツバキ殿。また3か月後に来る。それまでに何かオモシロイ話でも見繕っておいてくれ。礼はまた弾むでな、美味しいものでもたんと召し上がれ」
「3ヶ月後?? ……お、おぅ、オレの名前を忘れてなきゃ会えるかもな。じゃぁな、小園ばぁちゃん」
あまり頻繁に遠出すれば、あの男に何をしているかと詮索されても困る。
3ヶ月後、青年の名前を覚えていられるかって?
その名を忘れるはずがない。
萬葉東家当主、サラの祖父の
* * *
3ヶ月後――
「本当に来たのかよ、モノ好きだな、小園ばぁちゃん」
「あらあら、名前覚えてくれていたんだねぇ、うれしいよ、ツバキ殿」
「おっ、ばぁちゃん、すげぇ。覚えてた!」
まんざらでもないと言った様子で、嬉しそうにする顔を見ると、若き日の当主を見るようで、まるで身分も風貌も違うのに、不思議な気もちになりました。
「で、ばぁちゃん、オモシロイかどうかは知らねえが、名前で面白いの見つけた」
「なぁんだ、ちゃんとオモシロイ話を見つけてくれたのかい」
物騒な茶屋の裏話も、ふたりの間では怪談話に興じる時間になっていた。前払いも忘れ、青年はとっておきの隠れ基地とやらに案内してくれ、ふたりして腰かけたあとは話の先を急いだ。
「それで、名前というのは?」
「鳴世 彌鈴」
「ナルセ ミスズ?」
持ってた棒を使って、地面にその字を書いた。むずかしい漢字なのに、これも形で覚えたというのだから、少年、そして青年の記憶力は侮れないものだ。
「そう、ひさごやに出入りしていた給仕で、飛び級にべっぴんの女」
「給仕係のおなごかい?」
「そ! その人が店に入る日はさ、客の入りがえらく良くてさ、何より裏帳簿の売上も爆上がりする日だったんだ」
「……それ、なんで分かったんだい?」
「客は見りゃ分かるだろ? で、裏帳簿ってのはさ、勘だけど……」
「おぉ、勘で良い良い、勘が冴える時もあるでな」
「オレ、結構、店主に気に入られて、毎日のように店に入ってた時があってさ」
「ほう、それで」
「リアルままごとの帳簿めくりは日課のようにしてたから、分かったんだ」
そう言って次に地面に書いたのは
「X」のしるし。
「これ……」
「そ! この前言ったやつだよ。その女が来ると、帳簿にこのしるしがズラッと並んでたんだ。前の日は書いてなかったのに――。別の日もそうだった。法則を見つけたーって、面白がってたんだ。『ほら、やっぱり、またX付いた』ってね」
「なるほどねぇ」
「ひさごやに行かない日が続いたって、帳簿見りゃ女が来てた日が分かるくらいだ。で!オレは次の法則を見つけた」
「おやまぁ、まだあるのかい」
「ここからが本番さ。女が来たらXが付くだろ? その翌日、仕入れが入るんだよ」
「…………」
「…………な、すごい法則、思い出しただろ」
この時ばかりは二人して肝試しのつもりが、肝を冷やし過ぎたんじゃないか。
モノ言わずとも、裏の顔、置屋の顔が浮かび上がる。
鳴世彌鈴という女給仕が来る日は、人身が売られる。つまり「X」は――買い手がついて、出荷されたことを意味する。そして出荷した分の在庫を補填するように、人身が買われてくる流れ。
となると、この女はブローカーなのだろうか……。ひさごやの店主は、隠れ蓑となる箱貸しをしているだけで、実際に人身売買を動かしているのはこの女……ということなのか――。
にしても、ズラッと並ぶほど大量にとはねぇ……。ん……? 売ったそばから、翌日には大量に入荷?
一体、どこにそんなに買い手があり、どこからまた仕入れるというのだ――。
「ばぁちゃん。……ばぁちゃんが考えてることは、だいたい分かるんだけどよ。この世界は……ヘタな詮索は御法度さ」
「ん? どういう意味だい」
「まぁ、今は昔の話だから言えるけどさ――」
「ん? あぁ、前払いにお金かい?」
「いや、そうじゃない」
歯切れの悪くなった青年の顔を見ていると、声をいっそうひそめて話した。
「この女がらみで、そういやアノ事件があったなって思い出したんだ」
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