第16話 イチイヤマノボレ0222

 2月22日――ニャンニャンニャンの日


 とか言ってる場合じゃない。


 いざ、イチイ山を目の前にすれば、足がすくむ。


 近くにはゲレンデ場があるというのに、イチイ山には雪が積もらないという摩訶不思議な世界だ。


 ここはスキー・スノボ客はいない。


 冬以外は登山する人もあるというだけあって、登山口に案内所はある。


 わたしが来たのは……


 ふ……冬ですね……


 ガランとした案内所に、登山客らしき姿は皆無だ。


「すいませーん」

「…………」


「すいませ〜〜ん」

「…………」


 人の気配はするが、事務所らしき小部屋からは誰も出てこない。


「すみません!!」


 一段と大きな声を張ってみる。


「あ、あぁ〜はいはい、今いきますね」


 声の印象とは裏腹に、中から出てきたのは意外にも若い女性だった。


(まぁ確かに、来るはずもない来客なのだろうから、この対応のほうが自然なかもしれない)


 そう思って気を取り直した。


「あの、今からイチイ山に登りたいんですけど、道順が書いてあるパンフとか、いただけますか?」


「パンフ……? あぁ、これですか?」


 折り畳まれたパンフレットを広げてみれば、岩石の名前や頂上の場所、トイレの場所も書いてある。


「あ、はい! これです」


 よし!これで行けるぞ!と荒ぶる鼻息。

 それを完封したのは、窓口のお姉さんの言葉だ。


「つい最近、登山口から五、六十メートルほどいった辺りに、熊が出たという通報があったので、気をつけてくださいね」


(ど……、どうやって……。五、六十メールって近くない!?)


 たらりと冷や汗が出る言葉をさらりと言われ、後ずさりしても進むしかない。

 それに――、



 事あるごとに言われたこの言葉は、腑に落ちないことがないわけじゃないけど、『ただの人間』でいいっていうんだから――


 今のわたしは、自分が【ただの人間であること】が唯一の護符になっていた。


 ただの人間だけど

 ただの人間でも

 ただの人間だからこそ

 行けばわかるんだ

(きっと……多分……頼むよ……)


 背丈ほどあるススキの草むらをひたすら進む。


 途中振り返ると、二手に分かれる道。


「あれ? こんな道あったっけ??」


 となりのトトロにもこんなシーンがあったと思い出し、その世界にもがいたと思い起こせば、予想外の偶然に肝が冷える……。


 子どもだから見えた不思議な通路。

 わたしはもう、いいオトナですから、さすがにトトロには会えないはず……


 とっとっとっと


 足どり軽くかけ下りてくる姿に思わず、


「と、トトロ!?」


 いや……


 おきなである。


 翁だが160センチのわたしが見上げるほど背が高い。細身に白髪だが、足さばきの軽快さと全くゼーハー息切れしていない身体能力は、さながらアスリートだ。



「冥魔界に行くのですか?」


「あ、はい」


 わたしがここへ来ることは織り込み済みってことか、とすぐにこの状況を飲み込んだ。


(我ながら、ずいぶんと摩訶不思議なものごとに慣れてしまったもんだ)



「こちらへ来なさい」


 おもむろに木の実を採り、手渡された。

 これが――、イチイの実だという。


 翁は、横たわる大木に腰をかけると、ここからが大事なことじゃ、と続けた。



「神と、神の使いのみが知り、奏上できる祝詞のりとがある」

「祝詞?」

「しんのぞうにわたる あかいちい のうにらいめい ふしのとりあらわる」

「しんのぞうにわたる あかいちいの?」

「あ・か・い・ち・い」


 そう言うと、暗記するまで繰り返し反復練習……。最後に「イチイの実は赤い」と覚えておきなさい、と言われた。


「言葉は持ち主によって意味が変わる」これも覚えておきなさい、と――


(いやいやいや、覚えることが増えてるんですけどっ!)


「さてと」


 わたしの動揺はさておき、翁は膝にパンっと手をやり、立ちあがる。


「冥魔界に行くのであれば、イチイの実を一粒食べ、中の黒い種はこちらへ」


 そう言うと小さな麻袋を、わたしに持たせた。


 持たせたついでに、

 伸ばしたわたしの手に

 翁が巻きつけたのは――



組紐くみひもだよ。きっとお守りになる」



 まるでミサンガに願いを込める青年のように真剣な顔つきの翁。


 もはやこちらも、願掛けでも、まじないでも、この際すがれるものには何でもすがっておきたい気分で受け入れた。


 そのあと、「えいっ」と半ば勢いに任せ、赤い実を一粒、口に放った。


(……ん?? 美味しい!!)


 初めてみる得体の知れない実がまさかの美味。あまりの美味しさに思わず目が開いた。実を歯でこそいで翁に言われたとおり種を袋に入れた後、聞かれてもいないのに、好物でも見つけたかのように感想を伝える自分がいた。


「モモとビワのあいの子みたいな味がしました!」


 ふふん、とうれしそうにする翁。


「意識が戻る時、そこは冥魔界だから、彼に会ったらもう一粒は口で渡すのじゃぞ。『イチイの実は赤い』これだけ覚えておいて」


(ちょっ、意識が戻る時って何……? え、今から意識失うっていうの!? それ、先に言ってよ!!!!)


 またこういう展開……。

 にしても「イチイの実は赤い」の押しの強さが気になる。まるで鹿児島のタクシーの運ちゃん、「あの戦争で人ね」を彷彿とさせる……。


 あ! 


 祝詞の「あかいちい」が「赤イチイ」、この実のこと?? 口で渡せって、しんのぞうにイチイの実を口移ししろってこと??


 心に浮かんだ問いに、翁はまた、ふふんと笑う。


 ところが、こちらは口に出してそれを確かめたいのに、言葉が出せない――。



「そなた、神域で真っ黒になってなーんも見えんようになった鏡みただろう。本来、鏡は何を映すものか、わかるな?」



 意識がふわふわとするのを感じながら、翁の言葉はまだかろうじて理解できた。


 鏡……自分……うーん、神社の鏡でいうと己の心、みたいな??


 あ!


「しんのぞう」って、心の像? 真の像? 神の像?



「そうじゃな、そなたの場合はそうなのじゃな」


 うんうん、翁はにんまりと嬉しそうにうなづく。


「じゃから『言葉は持ち主によって意味が変わる』という。まさしく言葉は言霊ことだま、己の鏡のようじゃな」


 ひとりドヤ顔で納得する翁。

 その顔を目で捉えながらも、意識が一層ふわっとする。


 次の瞬間――、

 目の前の世界がぐるんぐるん回り出す。


 三半規管の乱れを思わせるその世界は、意外にも吐き気とはほど遠く、まるで万華鏡のようで、魅入ってしまうほど美しく移り変わる。


 それとは対照的に、翁だけは目の前の定位置にいて、こちらを優しくみていた。


「その立ち向かうところ、変わらないですね」


「やれやれ」と呆れながらも、昔から良く知る人のような口ぶり――。


(――是清さん!? ん? 澄矢??)


 頭によぎった言葉を聴いたかのように、嬉しそうに歯を見せ微笑む翁。


(話を切り上げる時に膝にパンっとやるあの仕草、澄矢も瑞穂もやる……)


 そんな回想をしている内、翁の姿はみるみる若い姿に変貌していく。その姿は、写真でみた矢上是清さん以外のなにものでもなかった。


(あの写真と同じ顔だ!!)


 違うのは特攻服ではなく、現代のスーツ姿になっていることだ。


 どういうことだ……現代って――


「……風矢」


 ……あぁ、なぜだろう。


 こんな時にまた、アノ男のことを思い出してしまうなんて――

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