5話「る」
翌日、病院食を食べた俺はずっとベッドに横たわっていた。
寝て目が覚めたらレムリア大陸で目覚めないかと期待したが、そう上手く事は進まない。
栄養のバランスを重視した病院食も、俺の口には合っていた。
お昼ご飯前に愛唯ちゃんと栞さんが来てくれて、一緒に中庭を散歩したりした。
テレビやエレベーターの使い方も翔太郎の記憶を頼りにすれば扱える。言語や文字の壁も大丈夫だ。
翌日は記憶に関する検査や脳の検査を行い、午後は一人で中庭を散歩した。
一人で生活しても支障はない。この世界の生活に慣れて来た。
どれもこれも、翔太郎の記憶の一部を俺が引き継いでいるが故に問題なく進む。
次の日は愛唯ちゃんと栞さんの代わりにツユと怜雄が来てくれた。
それからこの世界の生活に慣れるための日々が続き、俺がこの世界にやって来てから1週間が経過した。
主治医の一谷先生の判断で、病院を退院することになった。
退院当日。
入院生活で髪の毛が伸び続けていた俺は、病院内で散髪をしてもらった。
怜雄が持っていた昔の翔太郎の写真の通りにしてもらった。
翔太郎の知識曰く、「マッシュ」という髪型らしい。
前髪を眉毛の上で右に流し、目にかからないようにしている。
健康的な病院食のお陰で髪質と肌の質も良く、翔太郎の容姿が元から整っていたことも相まってそれなりの容姿になった。
一谷先生にお礼を告げ、俺、愛唯、ばあちゃんの3人でタクシーに乗った。
高齢になると車の運転をするのは危険なので、ばあちゃんは免許を返納している。
その為、以前の翔太郎や愛唯も、バスや電車の公共交通機関で移動していたらしい。
”平田町駅”と書かれた看板の前で停車し、そこから徒歩で家まで移動となった。
「お兄ちゃんの部屋、私が毎日掃除してたんだから!」
久しぶりに俺が我が家に帰ってくることが嬉しいようで、愛唯の足取りは軽快なものだ。
「今日は翔太郎が好きな食べ物ば、用意してあるけん、ようさん食べなっせ」
暖かい九州の方言でばあちゃんが俺と愛唯を見守りながら言った。
「ありがとうございます」
俺は栞さんにぺこりと一礼した。
「あ~!お兄ちゃんまた敬語使ってる~」
と、愛唯が俺を見て笑った。
「ああ、また出た……」
数日前、愛唯が「家族間における敬語禁止令」を発令したことにより、俺は家族に敬語を使ってはいけないことになった。
「ごめんね愛唯ちゃん」
「だからちゃんも付けないでって!もう小6だよ私!なんかお兄ちゃんにちゃん付けされると気持ち悪い」
「気持ち悪いは言い過ぎでしょ……」
同時に、愛唯ちゃんを愛唯、栞さんをばあちゃんと呼ぶ「家族の呼び方にしましょう令」も同時発令されたのだ。
まだ違和感があるが、この呼び方のお陰で少し距離が縮まった気がする。
タクシーを降りてから少し歩き、家に到着した。
家……いや、我が家……か。
ブロック塀に囲まれた木造平屋の一軒家。玄関は引き戸で作られており、縁側も伺える。
翔太郎、愛唯、ばあちゃん の3人で住むには十分な家だ。
玄関先には翔太郎が使っていたであろう自転車があり、その前籠には3号球のハンドボールが入っている。
塀と家の間には草木が生えている。無造作に生えている訳ではなく、景観としての役割担うために綺麗に整えられている。
立ち尽くす俺を追い抜いて、愛唯とばあちゃんが玄関を開けた。
がらがらと音が鳴り、中の様子が伺える。
玄関の石畳は磨かれていて若干の光沢を帯びており、床はヒノキのフローリングで出来ている。
靴を脱いで家に上がった愛唯が俺に手を伸ばして言った。
「おかえり。お兄ちゃん」
俺はハッとして我に戻り、反射的に答えてしまった。
「ただいま」
俺は玄関の引き戸のレールを跨いだ。
どこか懐かしい、木の臭いが鼻孔を通る。
「おかえり。翔太郎」
ばあちゃんが、また優しい声で言った。
ごめん。二人とも。俺は翔太郎だけど、翔太郎じゃない。
翔太郎の姿形をした、アセナ フェンリルなんだ。
これは、嘘を付いてるのと同じだ。
俺なんかの”ただいま”で、二人を安心させていい訳ない。
でも、嬉しいんだ。俺を受け入れてくれることが。
二人の気持ちが真っ直ぐ伝わってる訳じゃないけど。
「ただいま」
____________________
俺は家に上がるとまず自分の部屋に案内された。
「ここがお兄ちゃんが使ってた部屋だよ」
愛唯はそう言うと俺の部屋の引き戸を開けた。
愛唯が掃除をしてくれたお陰で、俺の部屋はとても整理されていた。
入って右手に勉強机と本棚があって、左手にはベッド。部屋の中央には机と座布団があり、壁には制服が掛けられている。
床には藍色のラグが敷いてあり、窓は無いが家具が寒色で統一されているので清潔感がある。
「私が掃除してたって言っても、元々お兄ちゃんが綺麗に使ってたから維持するだけだったよ」
「そうなんだ。でもありがとう」
(翔太郎は元々綺麗好きだったのか……。俺も綺麗に散らかさないようにしないと)
「あ、あとこれ」
そう言うと愛唯は勉強机の上に置いてあったスマホを持ってきて俺に手渡した。
「これは?」
俺が尋ねる。
「お兄ちゃんが前に使ってたスマホだよ」
俺はスマホを手に取ると画面を起動してみる。
待ち受けの画面には現在時刻と大量の通知が表示され、背景には二人の人影が写った写真が映っている。
画面をタップしてみると、四桁の数字を入力する画面が映し出された。
「お兄ちゃん、パスワード覚えてる?」
ロック解除用のパスワード……。翔太郎個人に関する記憶は引き継いでいない。
「ごめん、覚えてない」
「そっか~。この機種だと顔認証も無いしね……。どうしたものか」
愛唯は頭を傾げて困った顔をした。
「まあ!そのうち何とかなるでしょ!私は夜ご飯の準備してくるからゆっくりしてて!」
そう言うと愛唯は部屋を後にして台所に向かった。
俺の視線は勉強机の上に置いてあった物に向かった。
ボロボロの箱に入った、狼のキャラクターが描かれたスマホケースだ。
箱の角は変形していて、中のスマホケースもひびが入っている。
もう使えるような見た目では無いが、愛唯が捨てずに残していたということは、それなりに価値があるものなのだろう。
勉強机の棚にも本棚にも、沢山の本が揃って置いてあった。学校で使う教科書から、百人一首の解説本、ヴェネツィアの写真集、海の生き物図鑑、ライトノベル小説、分厚い長編ミステリー小説。
本が入りきらないスペースにはアシカやイルカ、ラッコなどのフィギュアが置いてある。
ベッドにはチンアナゴの抱き枕やセイウチのぬいぐるみ、人気ゲームのぬいぐるみ等が置いてある。
(翔太郎は海の生き物が好きだったのかな?)
襖の中には大人っぽい印象の落ち着いた服と、運動用の服が何着か閉まってある。
俺はその後も部屋を物色して状況の把握に努めた。
2時間くらい経った後、陽は傾いて周囲は暗くなり始めていた。
「お兄ちゃん、ご飯できたよー」
エプロン姿の愛唯が俺を呼びに来て、俺は愛唯に着いて行った。
大きな机の周りに座布団が引いてあり、机には沢山の料理が並べられていた。
「翔太郎も座りや」
と、栞さんが手招きしてくれた。
俺は座布団に座り、眼前に広がる料理の数々を見た。
唐揚げ、みそ汁、サラダ、漬物、煮卵、佃煮、刺身、大盛りのご飯。
暖かい食べ物からは湯気が出ており、唐揚げは大皿に山盛で積まれてある。
この世界に来て健康的な病院食ばかり食べて来た。病院食がまずかった訳ではないが、唐揚げのような揚げ物は始めてである。
反射的に生じた唾液を飲み込んだ。
「お兄ちゃんは唐揚げ好きだったもんね。今日はいつもより沢山作ったよ」
愛唯は自身に満ちた顔でそう言った。
「思う存分、ようさん食べなっせ」
ばあちゃんも微笑みながら言ってくれる。
俺は箸を取り、手を合わせた。
「いただきます」
左手で茶碗を持ち、唐揚げを大皿から取り、かじりついた。
引き裂かれた衣と肉の断面から、待っていたと言わんばかりの肉汁が溢れ出し、口の中で俺の味覚に凱旋の刺激を与えた。
あまりの美味しさ。唾液腺が限界を迎えようとしているが、気にせずにご飯を掻きこむ。
咀嚼する度に溢れ出す旨味は、「幸」という漢字を筆で1画ずつ書いているようだ。
だが、俺から溢れ出すのはそれだけではなかった。
俺の頬を、二筋の雫がぽつりと流れた。
唐揚げの美味さとは対象的な、静かな二滴。
ご飯と唐揚げを飲み込んだ俺の口に、その雫が頬を伝って流れて来て入り込み、少ししょっぱい。
「あれ……」
俺は両手で自分の目を拭った。右手に持っていた箸は床に落ちた。
拭っても、拭っても、この涙は止まらない。
俺の意識に反して、涙は流れ続ける。
(なんで……。俺は、悲しいはずじゃないのに。ただ、ご飯を食べて、美味しいと思ってるだけなのに……)
(前と同じだ。この身体が勝手に泣いてる。俺の気持ちじゃなくて、翔太郎の身体が、勝手に涙を流してる)
「そんなに美味しかったかい」
ばあちゃんは今度も無償の優しやの声でそう言った。
「う”ん”!!」
翔太郎の気持ちが無かったとしても、この暖かさを感じれる自信がある。
翔太郎としてのアセナでも、この家族に居たいと思った。
家族には会ったことが無い。レムリア大陸ではそれはおかしいことじゃない。
でも、人の暖かさが、こんなにも嬉しいものだなんて。
レムリアに居たままなら、気づけなかった。
俺も、この家族に一員になりたい。
心からそう思った。
「さあ、そんなに美味しいなら私たちも食べよ!」
食事を終えると、風呂に入ってみんなで雑談をして、就寝した。
1節 「会い音、暗い音」 ー完ー
_______________________________
翌日、怜雄が訪れて来た。
「よお翔太郎。学校のことなんだけど―」
2節「我、逢ふ、人」
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